小さな小屋でスタートした?│ポルシェの波乱万丈な歴史

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最初のポルシェがオーストリアの小さな小屋で誕生してから、70年が過ぎた。その間はまさに波瀾万丈、様々なできごとがあったのだ。

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1930年秋に設計事務所をいて独立したフェルディナンド・ポルシェ博士には、ほとんど家庭生活がなかった。ダイムラー・ベンツほかで大きな業績を残したポルシェ博士のもとには、同世代のエンジニアの中でも突出して仕事の依頼が多く舞い込んだ。ツェンダップ、NSU、アウトウニオン、アウストロ・ダイムラー、こうしたドイツメーカーがポルシェの顧客であった。のちにビートルの愛称で知られることになるKdFワーゲンの設計も手がけた。そのプロトタイプは、シュトゥットガルトの自宅ガレージで製作された。
 


ドイツ産業界が戦争に備え始めていた1939年、ポルシェ博士は、同じように才能豊かな息子フェリーと共に、3台のレーシングカーを設計、製作した。ベルリン・ローマ間耐久レースに向けて造られたタイプ64と名付けられたマシンは、タイヤまでを完全に覆う流線型のクローズドボディのミドシップに、KdFから流用した空冷式水平対向4気筒エンジンを搭載していた。ポルシェのバッジこそないが、この車こそ最初のポルシェといえるだろう。
 
だが、第二次世界大戦の勃発によって、タイプ64のレースデビューはかなわず、ツッフェンハウゼンにあったポルシェの工場も、軍用装甲車の組立工場へと変わった。1944年、連合軍の爆撃によって工場が破壊されると、残ったポルシェ関係者はオーストリアのグミュントへ疎開し、会社のトップは、元製材所の健康によいとはいえない環境で細々と仕事を続けた。
 
戦争終結後、ドイツの技術者や実業家の多くが連合国側に逮捕、尋問された。ポルシェ博士も何度も尋問を受け、パリで幽閉される身となった(1947年8月までの2年間に渡った)。その間に息子のフェリーとカール・ラーベ技師は小型オープンスポーツカーの設計に取り掛かった。ポルシェの名前を初めて冠することになる356だ。すでに外観はわれわれが知る量産型の356と大きく違わないものだったが、ミドエンジン・レイアウトを採用していた。発売までにはアンダーパワーなエンジンやブレーキ、窮屈なドライビング・ポジションなどに大幅な改良が必要だった。
 
戦争によって引き離されていたポルシェ事務所の設計者やエンジニア、クラフトマンが復帰してくると、プロジェクトは大きく飛躍する。356は1948年にロードカーとして認証を取得。1950年に疎開先のグミュントからツッフェンハウゼンに戻って量産を開始したときには、ボディもクーペからスピードスターまで揃っていた。試作車はミドエンジンだったが、量産型はポルシェを象徴するリアエンジンとなっていた。
 
フェルディナンド・ポルシェ博士は、会社がツッフェンハウゼンに戻った翌年、1951年1月30日に亡くなった。博士の名を称えるかのように、レース用に仕立てた356SLは同年7月にル・マン24時間でクラス優勝を果たした。また、同じ年に2台の356がフランスのモンレリーで速度記録を樹立している。


 
ポルシェは、ミドエンジンレイアウトの試みを356のプロトタイプで終わりにしたわけではなかった。1953年の550スパイダーでは、4カム1488cc水平対向4気筒エンジンをミドシップに配置している。最高速は225km/hほどに達し、ル・マン、ニュルブルクリンク、タルガ・フローリオで好成績(クラス優勝ほか)を残し、ポルシェのレーシングカーメーカーとしての地位を不動のものにした。ポルシェにとって大きな意味を持つ550であったが、不幸なことに、映画スターでアマチュアレーシングドライバーでもあったジェームズ・ディーンは1955年にレースに向かう公道上で550によって事故死している。
 

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Ben Field

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