フェルディナント・ポルシェが足として使っていた?忘れられたポルシェ

Photography: Mark Kucera, Rob Box and The Porsche Archives



しかし戦後の情勢を考えてみれば、ポルシェが冷淡であることの理由がわかる。それはポルシェTyp64(またはフォルクスワーゲンTyp60 K10)が、ナチス政府のもとでプロパガンダのツールとして誕生したからである。ナチスに協力したとの罪状で戦犯として逮捕された父の釈放後、フェリーにとって忌まわしいナチスとの関わりすべてを断ち切ることは最重要課題だったのだ。Typ64は技術的にも実り多い大切な車であったものの、社会的な面からすれば、それは触れられたくない過去の証であった。一方356は、フェリー・ポルシェひとりの決意によって誕生した新しいスタートだった。 ポルシェの記念すべき第1号車、ミドシップエンジンの356.001は、1949年にポルシェのスポンサーのひとりに販売され、後にポルシェミュージアムが買い戻している。

だが、ポルシ
ェはTyp64にはそうしなかった。ポルシェの覚悟を示すエピソードも残っている。オットー・マテはある時、Typ68をレンジローバーで牽引してツッフェンハウゼンへ持って行ったが、工場のゲートにいた係員から「ポルシェ博士はお会いできません」と告げられ、オットーはそのままインスブルックへ引き返した。

Typ64が1983年にラグナ・セカとモントレーのヒストリックカーイベントに姿を現すと、譲ってほしいという申し出が殺到したが、マテは手放すことを拒んだ。83歳になったマテは、終生独身で通したこともあり、彼の持つすべての車、バイク、ボート、トロフィーや発明品を展示したいと考え、オーストリアの石油貿易会社の提案を受け入れ、1990年に小さな文言を読むことなく契約書にサインした。するとこの会社はTyp64の売却を決め、ポルシェに高額の金額を提示した。だが、ポルシェは買取り交渉には応じず、マテの弁護士は石油貿易会社から車を取り戻すまでに4年の歳月を必要とした。

オットー・マテが1995年に88歳で亡くなると、事態は再び複雑になった。生前、多額の財産を持っていたマテは、個人だけでなく、クラシックカークラブから動物愛護団体に至るまで様々な機関に寄付を約束しており、この遺産問題すべてを解決するまでに2年が費やされた。

紆余曲折の末に3人目の所有者となったのはポルシェのエンスージアストならよく知っている人物であった(1973 カレラ RS 2.7限定生産モデルを手掛けた人物)。その時、Typ64は荒れ果てた状態で、シャシーの一部はエンジンマウントの位置で崩れていた。新しいオーナーの元で、時の流れを可能な限り残すことに留意したレストアを終え、オーストリアのエンスタールクラシックイベント、そしてグッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードに参加した。



だが、ミッレ・ミリアのオーガナイザーだけが参加を受理しなかった。歴史的に見て参加資格となる関連性が見つからないというのが理由らしい。ベルリン~ローマのレースに参戦するために誕生したポルシェTyp64は、未だにローマの土を踏めずにいる。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:渡辺 千香子(CK Transcreations Ltd.) Translation: Chikako WATANABE (CK Transcreations Ltd.)  Words: Hans-Karl Lange 

無料メールマガジン登録   人気の記事や編集部おすすめ記事を配信         
登録することで、会員規約に同意したものとみなされます。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事