「B級映画の帝王」ロジャー・コーマン監督が語るカー・ムービー

MG TD に乗る、最近のコーマン。この MG TD は、コロナ禍の最中に夫人と娘さんがレストアした。


The Young Racers


1963年には、氏が手がけた2作のF1映画のうち、最初の作品『栄光のレーサー(The Young Racers)』〈1963年・米国〉が公開されている。この映画は、当時コーマンが拠点にしていた小規模なインディペンデント系会社、アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ社に向けて、9万ドルの低予算で制作された作品だ。作品内容は、氏自身のアイディアに基づいていたという。

『栄光のレーサー(The YoungRacers)』〈1963年・米国〉のポスター(ALAMY)

「F1について想いを巡らせていたところに、親しい友人のボブ・キャンベル(ロバート・ライト・キャンベル)が、闘牛の話を書き上げました。しかも、その話はまだ売却前だった。そこで私は、『ボブ、その脚本をF1の話に書き変えてくれないか』と頼んでから、馴染みの映画制作クルーには『ヨーロッパで、経費が全額支給されるヴァケーションを過ごしてみないか?』と持ちかけたんです。最高のスタッフを集めましたよ。アシスタントはフランシス・フォード・コッポラだった。私はフォルクスワーゲンのマイクロバスを調達して、フランシスや制作クルーの主要メンバー達は、撮影機材を全部積み込めるように内装をリビルトしてね。そして我々一行はヨーロッパに向かいました。F1レースは1週間おきに週末に開催されていたので、各レースの開催にあわせて撮影を進めて、レースのない週は休暇にして旅行者としてすごしていたわけです」

この作品には、ウィリアム・キャンベルやパトリック・マギーなどの俳優陣に加えて、レース・ドライバーたちも出演している。

「ロータス・チームのトップ級ドライバーは、世界チャンピオンのジミー・クラーク(ジム・クラーク)が最高峰、次いでトレバー・テイラーが二番手でした。私は彼らを撮影できるようにロータスと交渉をして、作中では主役マシンを操ってもらいました。さらにクーパーとも交渉をして、クーパー・チームの最高峰だったブルース・マクラーレンにも出演してもらったんです。ジミーのライバルのような役でね」

ジム・クラークが操った「1963年ロータス 25」の模型とともに。

「最初に撮影したレースはモナコ・グランプリでした。あれは私が体験した中でも、もっともワイルドな撮影だった。会場中の人たちはレースの開始を待ちかねている。そんな中で私は撮影準備だ。撮影した場面は、ジミーがフィニッシュ・ラインを超えたすぐ先まで運転してから、そのマシンに主役のビル・キャンベル(ウィリアム・キャンベル)が乗っているシーンだよ。ジミーは準備万端で、サーキットの中心では撮影用トラックも近づいてくる。そこで観衆の目に飛び込んできたのは、馬鹿みたいになっている私だ。私はサーキットの内側を駆け降りながら、撮影トラックの運転手に動けと叫んで、観衆はそれを眺めて拍手を送って…という具合でした」

「それからピットに足を運んでみると、トレバー・テイラーがアクシデントに遭ってしまっていて、ボディワークも裂けている。彼は引き揚げるし、チーフ・メカニックは私にむかって『君たちは縁起が悪い』と言い出す始末だ。シーズンの初レースからロータスにそんな風に思われるなんてまっぴらだ、と思いましたよ。だから私は、『縁起が悪い?冗談じゃない。単に、君らが最後まで持ちこたえられるマシンを造れなかっただけじゃないか』といったんです。それ以来、縁起が悪いという話は一切出なくなりました」

そんなやり取りはあったものの、コーマンとロータスの創業者コーリン・チャプマンとの親交は続き、コーマンはロータス・エリートを購入している。「チャプマンには、私はタダでロータスを宣伝するから、せめて、ロータス1台を組み立てるために必要な経費と同じ価格で買わせて欲しいと言ったんですよ。その価格がいくらになろうともね」

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:フルパッケージ

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