「この車を手に入れたいと思わない人もいるだろう、だがそれでいい」|アメリカの毒蛇、ダッジ・バイパー回想録【後編】

Ray Hutton

この記事は「アメリカの毒蛇、ダッジ・バイパーの登場時を回想する【前編】|リー・アイアコッカの反応は?」の続きです。


目標となる発表日は1992年の1月で、予算は5000万ドルと自動車産業の基準からすればごくわずかなものだった。チーム・バイパーはまた異例のアプローチに着手した。サプライヤーはバイパーのビジネスに対して部品供給などの協力依頼をされていたわけではなかったが、リスクは共有するようにと呼びかけられていた。しかし、どうやら彼らは開発に対するコストをかけるぐらいなら、契約書を早く交わしてしまいたかったようだ。カナダのファブコ社はシャシーの提供に賛同し、ロックウェルがボディ・パネルを製造することになった。そしてボルグ・ワーナー社は新型の6段変速のギアボックスを提供した。

そして、デトロイトのクライスラーのスタンピング工場の一部であるニューマックアヴェニュー・プロセスセンターにあるスペースが、チーム・バイパーのハンド・ビルド製造ラインとして稼働することになった。



バイパーは当初、0-100km/hで4.5秒、0-161km/hで10秒、トップスピードは約260km/hに達する“コブラ 427”に匹敵するか、それを上回る性能を発揮すると予想されていた。そのためには400馬力と610Nmのトルクが必要だろうとされていたものの、オリジナルよりも50kgほど軽量化したアルミニウムブロック製のエンジンであれば簡単に達成できる値だった。



バイパーは想定よりも早いペースで製作が進められており、製作開始から12カ月後にあたる1991年の5月には、プロトタイプが同年のインディアナポリス500のペース・カーとして選ばれた。想像するに、アメリカのレース界(それに加えて自動車工業の組合も)が日本を起源とする車である(三菱GTOの姉妹車である)ダッジ・ステルスを起用しようとしたことに異議を唱えたからではないだろうか。コブラの生みの親であり、当時クライスラーと協働していたキャロル・シェルビーはバイパーの試運転のために招かれ、インディ・レーサーがうなるようなドライビングを見せつけた。

三菱製の四輪駆動のステルスの代役となったことで、バイパーはクライスラーにおいてユニークで独立したポジションを確立したといえるだろう。ラッツが“レトロなテクノロジー”と表したように、コンセプトとしてはオールド・ファッションながら、バイパーはクライスラーにとってまったく新しい存在となった。開発スピードも早く、同時に他の車とは一線を画すような手法で製作された。しかし結果的には、エアコンなし、ハンドルロックやドアロックもなし、エア・バッグやアンチ・ロックブレーキなどの安全システムやデバイスもなし、つまり最新技術を使用した部分はほとんどない。ラッツはこのようにジョークを飛ばしている。「バイパーは四輪操舵だよ。なんと、君の右足で操るのさ!」

ニューマック通りの工場にて、15人から始まり最終的には70人にまで増えた熟練メカニックたちは、洗車機のコンベアシステムを利用した22のステーションからなるアッセンブリ・ラインで働いていた。1台を組み上げるのには1日を要した。試作モデルは1991年のクリスマス前には完了し、バイパーは予定通りに仕上がり、大幅に予算をオーバーすることもなかった。(7000万ドルと、新しいプログラムの金額としては当時としてもいささか控えめな金額だった)

デトロイト・ショーのプレビューでコボ・ホールの通路に登場したバイパーは注目の的となった。ドライバーはもちろんラッツだ。ラッツとのプロジェクトはコンセプトカーが登場してから常々話題になっていたため、私は「クライスラー社外の人はいつになったらバイパーを運転できるのか」ということが気になって仕方がなかった。そんなわけで、冒頭のチェルシー試験走行場での早朝テストドライブが実現することになったのだった。



ニューマック通りの工場を訪問してから数カ月後、私は道路と試験場でついに実車を運転する機会を得た。ボディパネルを外したバイパーを見た。それはいうなれば「太いホイールと燃料タンクが後ろについた巨大なエンジン」だった。ある熟練工は「世界最速のゴーカート」とも称している。たしかにドライな道では、ゴツいミシュランタイヤ(その当時の乗用車では最も幅広のタイヤだった)は並外れたグリップで、長くワイドなコーナーを驚異的に速く駆けることができる。コクピットは、カートというよりも1950年代のスポーツレーサーを思い起こさせた。



バイパーの人気は否定できないものになっていた。バイパーが走り去るところでは皆が振り返り、笑みがこぼれた。合衆国内での価格は55,000ドルで、ライバルのコルベットと張り合えるほどの好調な売れ行きだった。『Car and Driver』『Road & Track』『Motor Trend』『The Automobile』といった自動車雑誌における評価も抜群だった。

計画では、年に3000台製作することができれば黒字になるとされていた。3000台は甘くない数字と思われていたが、それは現実となった。実際に、1994年には最大の3083台のバイパーが販売されたのだ。

当初の製作ペースは、日に3台とゆっくりとしたものだった。最初の200台の買い手はすぐに見つかり、バイパーは特別な顧客に対して一気に販売された。1992年の暮れまでには285台が販売された。クライスラーの経営層が刷新されたのはその頃である。リー・アイアコッカが引退し、チーフ・エグゼクティブにはボブ・イートンが就いた。それに伴い、製品の総責任者でありながらCOOでもあったラッツは影響力を強めていく。いくつかのエキサイティングな新型モデルによってクライスラーは好調で、その中でバイパーは「パフォーマンス・キング」として君臨したのだった。この勢いにおされて、ラッツ、イートン、ゲイルの周りの執行役員を含めた十数名クライスラーの経営陣は、自分のためのバイパーをオーダーしたという。



ラッツとイートンが、復活したクライスラーのグローバルなポジショニングを確立するための策としてバイパーの輸出を行うことにしたのは必然だった。バイパーを正しく理解してほしいという思いから、クライスラーは1993年の5月にモナコにてヨーロッパでのプレス・プレビューを開催し、オートルートとアルプ=マリティームでの試乗会を実施した。憲兵隊すらも惹きつける魅力があったとはいえ、混雑していて狭く、その上デコボコのフランスの道路に、バイパーはピッタリの代物ではなかった。そして、モンテ・カルロのそこかしこに駐車しているフェラーリやポルシェと比べてしまうと、スパルタンな見た目の薄いグレーのプラスチックの内装や計器類は明らかに見劣りしたことは否めない。ちなみに、当時はダッジ・ブランドは欧州では販売されていなかったため、これらの車は「バイパー byクライスラー」として販売されている。

少量生産の車ではよくあることだが、第二弾のバージョンはオリジナルのものから大幅な改良が加えられた。クライスラーは十数名のジャーナリストを北カリフォルニアで開催された「カリフォルニア・ミッレ」というラリーイベントに招待し、第2世代のバイパーに乗る機会を提供した。1995年に登場した1996年式バイパーは、荒削りだった部分は滑らかになってより運転しやすくなっていた。

「カリフォルニア・ミッレ」は1960年代以前の車両に限定されたイベントだが、バイパーにも乗ってみたいというクラシックカーのオーナーたちは、途中で我々が運転していたバイパーと彼らのクラシックカーを交換して楽しんだ(つまり我々は、つかの間ではあるが値段もつけられないような歴史的な“ホンモノ”のマシンをドライブすることができたのだ)。クライスラーとしてはバイパーの性能に好印象を持ってもらったことは嬉しいことだっただろうし、実際に何台か売れたかもしれない。



SR-Ⅱと名付けられた1996年モデルはバイパー本来の姿だ。エグゾーストは側面から後部に移り、2本のセンター・テールパイプが加えられ、パワーは415馬力まで増加し、いくつかのサスペンションの部品はアルミ製からスチール製へと替えられたことによって27kgの減量に成功した。インテリアはブラックで新調され、外見から中身まで、何から何まで改良が加えられていた。

バイパーはアメリカの公道を生き生きと走った。最初期モデルに見られたブレーキングの不安定さは解消されて、クイックなステアリングはヘアピンカーブも力強く楽しませてくれる。一方で、サンフランシスコの市街地ではいささか不器用ではあったが、そもそも街中でのクルージングのためにバイパーが存在するわけではない。



1996年モデルにクライスラーは“ダブル・バブル”ルーフを備えたコブラ・デイトナ・クーペを模したバイパー GTSクーペを導入した。FIA GT2 耐久選手権を制したクーペは、ロードスターを押し退けて人気を博することになる。このGTSはパワーウインドウやドアロック、エアコンやエアバッグまでも備えていた。バイパーの根幹である「ならずもの精神」は、文明化という危機に瀕していたのだった。

ボブ・ラッツは当時、次のように語っている。
「もしも、この車にABSやトラクション・コントロールがついてしまったならば、道を踏み外して迷子になってしまったということだ」

そして、アンチ・ロックブレーキが標準化される2001年まではバイパーに宿る「ならずもの精神」は持ち堪えた。そして2017年までには約32,000台が製造されたが、ボブ・ラッツがバイパーを発表してから25年の間に世界は変わった。

ここで発表時のボブ・ラッツの言葉を引用しておこう。
「この車を手に入れたいと思わない人もいるだろう、だがそれでいい。バイパーは万人向けの車じゃない。強烈なドライビング体験を味わえる。それだけでいいんだ」


文:Ray Hutton

オクタン日本版編集部

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