アメリカの毒蛇、ダッジ・バイパーの登場時を回想する【前編】|リー・アイアコッカの反応は?

Ray Hutton

1989年のコンセプトカー登場で世間の度肝を抜いたダッジ・バイパー。市販化から30年以上が過ぎた今、デビュー当時をモータージャーナリストのレイ・ハットンが回想する。



1992年1月。デトロイト・ショーのプレビューデーの夜10時、私がダウンタウンのウェスティン・ホテルの一室で原稿を書いていたときに電話が鳴った。クライスラーで製品PRチーフをしているトム・コワレスキからのものだった。「レイ、ボブ・ラッツは君に“バイパー”を運転させることを約束したよ。明日の朝7時30分にチェルシーの試験走行場に来られるかい?」

降りしきる雪を眺めながら、そしてチェルシーは60マイルも離れていることを知っていながら、私は一瞬だけ躊躇って、「ええ、もちろん。行きます」と答えた。

それが、私が初めて“ダッジ・バイパー RT/10”を運転するチャンスを得た経緯だった。最速225km/hで、ときには脇道に入ったり、暗闇や氷の上でも運転した。空いているテスト施設のオープンスペースを利用しての試乗だったので、想像するほど危険なテストドライブではなかった。



夜明け前のほんの1時間では多くのことを学ぶことはできなかったが、その市販モデルが3年前に初めて世界に公開されたバイパーのコンセプトである“ならずもの精神”を備えているということは確認できた。クライスラーがコブラ427の後継車を造った。その車を愛するにしても憎むにしても、無視することはできなかったのだ。

バイパーがコブラから影響を受けていることは疑いようもない事実だ。クライスラーの社長であるボブ・ラッツはAC マークⅣを所有していた。彼と、ホットロッドの熱狂的なファンのデザイン担当副社長のトム・ゲイルは、エキサイティングなコンセプトカーを次々と発表することでクライスラーのイメージを洗練されたものへと刷新し古臭くて物足りないというクライスラー製品の印象を覆した。

1989年のデトロイトショーに登場したバイパー。

1989年のデトロイト・ショーで彼らのメインアトラクションとして発表したのが、巨大なエンジンを積んだ野生的なツーシーターだった。言うなれば、現代のホットロッドだ。

当時はソーシャルメディアが普及していなかったため、現在より秘密を守り通すのは簡単だった。ショーのプレビューまで隠されていたバイパーが姿を現したときには旋風を巻き起こした。これまでのどのロードスターよりも大柄で車高も低く、より威圧的なスタイルを備え、ダッジのヘビーデューティーなピックアップ用プロトタイプのモンスター級8リッターV10エンジンが搭載されていたのだから、驚くのも無理はない。

ショーカーのインテリア。

発表時の「もしもそれなりの人々が興味を示してくれていれば、我々はこの車を製作するでしょう」という決まり文句に対して、オファーの手紙は洪水のようになだれ込んだ。中には小切手が添えられたものもあった。ラッツにはバイパーを製作する仮の計画があったが、それには資金が不足していた。そのため、彼は確信を得るために世論による投票をおこなったのだった。小切手は返却されたものの、彼はコンセプトカーを製品レベルに仕上げる方法を探るための部隊を立ち上げた。

「チーム・バイパー」は、エンジニアリング部門、デザイン部門、生産部門、仕入れ部門などの会社の様々な部門から30人のボランティアたちで構成され、最初はデトロイト郊外にあるファーマー・ジャックの倉庫にて活動した。ほどなくして、かつて西デトロイトのプリマウスロードで製作されていたアメリカン・モーターズのジープ/トラック・エンジニアリングのデザインスタジオをチームは社内の水面下でなんとか“相続”することができた。

このスタジオは、大企業の面倒な官僚制度から離れて自律的なオペレーションを行うことのできる「スカンク・ワークス」(実際に「バイパー・ピット」として知られている)となった。チームは、バイパーを三年以内に製作し。50,000ドルの価格で利益が出るように販売するための新たな手法を提案した。

チーム・バイパーのチーフエンジニアであり、材料の専門家でクライスラー・リバティ・プログラム(数年間にわたってクライスラーがおこなっているいくつかの基礎的研究の中の一つ)の古参でもあるロイ・ショーバーグはこのように語る。「あの段階では、我々はアイデアだけで働いていました」

ショーに出した車は初歩的なシャシー、「借り物」のエンジン、そしてスチール製のボディワークは(マサチューセッツの)メタルクラフターズ社の手作りで、一点ものの試作品だった。

ショーバーグはすぐにチームの人員を85人まで増やし、クライスラー社での使用可能な施設を用意するスペシャリストとなった。チームは一丸となって働き、ツールやコンピューター、ダイナモメーターなど、問題が生じればすぐにバイパー・ピットで解決方法を見つけて共有された。分野横断的なチームワークの成功により、クライスラーはのちにすべてのエンジニアリング・スタッフを「プラットフォームグループ」に再編成したほどだ。

1989年の8月までに、チーム・バイパーは、中心部分に溶接されたスチール・パネルによる強化を施したマルチチューブラー・バックボーンのシャシーである「ミュール」を完成させた。レーシング・スタイル、かつ同心円上のスプリングとダンパーを備えたダブルウィッシュボーン・サスペンションがフロントとリアに装備されている。そして、例えばステアリングコラムはジープ・チェロキーのもので、アッパーフロント・ウィッシュボーンはダッジのトラックから拝借しているように、様々な独自のパーツを組み合わせている。試作機2号は、走行試験のためのV8エンジンにフィットしたものだが、最終的な目標はやはり強力なV10への改良だった。

ラッツは取材の中で、1989年の夏にクライスラーが当時直近で獲得した子会社である、ランボルギーニがこのプロジェクトに参加したと述懐している。そのアイデアは、噂されていたようにランボルギーニエンジンを使うというものではなかったが、軽量なシリンダーブロックとダッジV10のヘッドを製作するために、そのイタリア企業のアルミ鋳造に関する専門知識を導入するということだった。そうでなければ、エンジンは素朴なデトロイトの規格通りの、シリンダーごとに二つのバルブがついたパッシュロッズによって製作されたものを採用していただろう。

その間、ボディフレームはプラスチック複合材によって製作されるようにデザインし直されていた。外観的にはコンセプトカーと非常によく似ていたものの、その試作品は全ての寸法や角度において少しずつ異なっていた。ボディパネルはRTM(レジン・トランスファー・モールディング)によるグラスファイバーによって製作され、骨組みとなるスペースフレーム・シャシーに接着されている。ショー・カーの特徴であった側面に配置されたエグゾースト・マフラーについては、いくつか難儀な作業が生じたものの実現することができた。

1990年の5月、チーム・バイパーは決定的なマシンを送り出した。決断のときだった。クライスラーの会長であり、ラッツとはあまり良い関係を築いていなかったとされるリー・アイアコッカがチーム・バイパーの成果をお披露目する場にやってきた。ショーバーグは彼を乗せ、デトロイトのオークランド・アベニューを轟音とともに走り抜けた。

会長の感想はこうだ。「何を待っているんだ? 早く作ろうじゃないか!」


・・・【後編】に続く

オクタン日本版編集部

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