「重い障害に打ち勝ちながら校長先生が生涯愛用した車」

Photography:Jordan Bulters


 
最初のオーナーであったベッドフォードスクール校長の物語は、不運に打ち勝つ人間の精神の古典であり、車そのものよりずっと感動的だ。その校長、ヒュー・ディクソン・カーは1894年、「北のハロッズ」として有名だったブラウン・マフ百貨店チェーンのオーナー一族に生まれた。しかし、彼の人生は決して平坦ではなかった。16歳のとき、1930年代にはまだ一般的な子供の病気のひとつだったポリオ(急性灰白髄炎)に侵されて足が麻痺し、再び立つことは不可能だろうと医者が諦めてしまうほどであった。だが、彼は努力のすえに杖を使って歩くことができるようになり、さらには上半身を鍛えるのに効果的といわれるカヌーに没頭するなど、可能な限りの努力をして積極的な生活を送り、オックスフォード大学のキーブルカレッジに進んで地理学を専攻し、学位を得ている。だが、病気を知った当時のガールフレンドは彼のもとを去り、生涯を独身で過ごした。
 
結果は、ジェームズ・ヒルトン著の小説「チップス先生」を地でいくことになり、学校が彼の家庭になった(チップス先生は最後には結婚したが)。当時子供だったリチャード・ニールの両親が、ヒュー・ディクソン・カーを離れに住まわせ、休暇にキャンプに行くなど家族として多くの時間を共に過ごした。そしてリチャードはヒュー・ディクソン・カー先生のラゴンダで運転を覚え、17歳の誕生日にそれで免許試験に合格したのだった(英国では、現在でも自分の車を持ち込んで運転免許試験を受ける)。
 
ヒュー・ディクソン・カーが、当時すでに所有していた3リッターラゴンダからステップアップして、LG45を買ったのは43歳の時だった。彼は毎日の足として十二分に使用したことで、2年も経たないうちに走行距離は4万マイルを超えたが、それにはノルウェーへのドライブ旅行が含まれる。1940年にナチスが占領する直前のベルゲンからのフェリーボートに乗った最後の車が、このラゴンダであったらしい。



右足に障害を持つドライバーとして、ヒュー・ディクソン・カーはそれまで使っていた3リッター・モデルと同様に、ハンドスロットルを備えたほか、フロントブレーキシューのブレーキスプリングやブレーキバランサーのスプリングを弱め、減速の際に後続車両に警告を与えるブレーキライトスイッチをハンドブレーキに繋げるなど、多くの改造を納車前に施した。これらはすべてファクトリーレコードに残されている。彼は熱心に車の面倒をみていたようで、ヒューの甥は叔父がいつも車を拭いていたことを思い出すという。


現在の登録番号BYG7は・・・次回へ続く

編集翻訳:小石原耕作(Ursus Page Makers) Transcreation:Kosaku KOISHIHARA (Ursus Page Makers) Words:Mark Dixson Photography:Jordan Bulters

RECOMMENDEDおすすめの記事