空飛ぶマントヴァ人と呼ばれた天才レーシングドライバーの物語

Photo=Tazio Nuvolari Asia/ Tazio Nuvolari Muzeo


 
長い戦いが終わってエンツォ・フェラーリがヌヴォラーリに再会したとき、タツィオはふたりの息子を若くした失意が未だ癒えてはおらず、心労から肺の病も進行して転地療養中であった。エンツォは再びステアリングを握らせることが偉大なチャンピオンの復活に繫がると考えた。
 
1946年5月にマセラティ4CLでレースに復帰したヌヴォラーリは、同年に13戦も出場しているが、これは戦中の空白を埋めるためであったのだろう。1947年にエンツォはフェラーリ社を創業し、5月のローマGP で125S が初優勝を果たしている。同年にフェラーリを訪ねたヌヴォラーリは、「レースに出る準備はできている」と復活宣言をしている。
 
敗戦から3年目にして1947年6月にミッレミリアが再開されると、フェラーリは自らのマシン、ティーポ125Sをエントリーした。ヌヴォラーリはチシタリアのドライバーとしてミッレミリアに戻り、惜しくも途中リタイアに終わったが、前半では首位を激走してみせ、見る者に復活を予見させた。
 
ヌヴォラーリが初めてフェラーリのステアリングを握ったのは1947年7月に開催されたフォルリでのレースのことで、125Sに乗ってクラス優勝を果たすと、次戦のパルマでも125S を勝利に導いた。"チャンピオンドライバー"が衰えてはいないことが世間に知れ渡ると、アルファ・ロメオが1948年ミッレミリアへの出場を懇願してきた。エンツォはこの交渉に割って入ると、ヌヴォラーリの"奪還"に成功。

レース2日前にスクーデリア・フェラーリのドライバーとして登録した。この強引ともいえる行為は、エンツォの友人に対する気遣いによるものだといわれている。喪失感と病に取り憑かれたヌヴォラーリは、レースに参加している間だけ、苦しみや悩みを忘れることができたからだった。
 
カーナンバー1049 のフェラーリ166Sを委ねられたヌヴォラーリは、ブレシアを猛然とスタートすると、ミッレミリア史上に残るような衝撃的な走りを見せてトップに立ち、そのまま独走体勢に入った。沿道に陣取った観客は帰ってきたチャンピオンの姿に熱狂し、レース主催者は名手の復帰安堵した。だが、そのあまりにも激しく、常人離れしたドライビングによってマシンは満身創痍となり、最終的にサスペンションが壊れてリタイアを余儀なくされた。
 
ヌヴォラーリがリタイアを決めたのは、レッジョ・エミーリア近くのオスピーツィオ村であったが、そこにはエンツォの姿もあった。病をおしての参戦ながら、この時点でヌヴォラーリは2 位に30 分のリードを保つという奮闘ぶりを見せていた。リタイアを決めたものの、彼はコクピットから自力で降りることができないほど疲労困憊していたという。この渾身の戦いに鼓舞されたのだろうか、もう1台のフェラーリ166Sをドライブしたヴィオンデッティ/ナヴォーネ組が、フェラーリ車にとって初めてのミッレミリア優勝を果たした。後年になってエンツォ・フェラーリは、1948年ミッレミリアでのヌヴォラーリについて、「われわれが共有した最後の情熱であった」と自著で回想している。
 
ヌヴォラーリにとって最後のレースとなったのは、1950年4月10日、アバルト・チシタリア204Aスパイダー・コルサで出場した、パレルモ-モンテ・ペレグリーノ・タイムトライアルであった。ここで挙げた1100ccクラス優勝が彼にとって最後の勝利となった。最後のレースから3年後の1953年8 月11日、病の床にあったタツィオ・ヌヴォラーリは60歳の生涯を閉じた。


 
訃報を受けたエンツォ・フェラーリは、自ら車でマントヴァのヌヴォラーリ宅に向かっているが、このあたりの様子を前述した自著のなかに記している。街の中で道に迷ったエンツォは近くの店を訪ね、老職人にヌヴォラーリ宅の場所を尋ねた。その老職人はエンツォ自身が弔問に訪れたことを知ると、彼の手を握りしめ、もうヌヴォラーリのようなチャンピオンは生まれてこないだろうと、悲しみの気持ちを語ったという。
 
エンツォ・フェラーリはその長いレース生活のなかで多くのドライバーに接しているが、これほど愛を持って接したのはタツィオ・ヌヴォラーリだけだろう。

文:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Words: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.)

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