空飛ぶマントヴァ人と呼ばれた天才レーシングドライバーの物語

Photo=Tazio Nuvolari Asia/ Tazio Nuvolari Muzeo



アルファロメオのレーシングドライバーであったエンツォ・フェラーリは、1923年4月、ラウラ・ガレッロと結婚し、それとほぼ時を同じくして、アルファロメオのモデナ地区で販売権を手に入れ、カロッツェリア・エミリア・エンツォ・フェラーリを設立した。
 
このころのアルファロメオは、そのままレースに参加できる高い性能を持った車を少数生産するという企業形態であり、車がとびきり高価なことから顧客は富豪ぞろいであった。このことから、ジェントルマン・ドライバーはもちろん、彼らの支援を受けたドライバーたちのレース活動を支えることもフェラーリの会社に求められた。
 
1929年11月には、エンツォはアルファロメオに在籍したまま、友人たちからの出資を得て、自らのレーシングファクトリーであるソシエタ・アノニマ・スクデリア・フェラーリを設立。セミワークスチームとしての役割を担うことになった。またエンツォはアルファロメオ・チームに支援する企業とも交渉して、スクーデリアへの協力を取り付け、財政基盤を強固なものとした。エンツォは才能溢れるアマチュアドライバーにマシンを安価で提供し、彼らの成長に努めていった。
 
エンツォが注目していたドライバーがタツィオ・ヌヴォラーリだった。彼は1920年(27歳)に二輪車でレースの世界に足を踏み入れると、25年に欧州チャンピオンのタイトルを手中に収めて無敵のライダーに登り詰め、1927年頃から四輪レースでも主にブガッティに乗って頭角を現し始めていた。1930年シーズンからワークスチームに属し、前述したように、同年4月の第4 回ミッレミリアでは6C1750 スパイダーで優勝を果たしている。これはアルファロメオにとってミッレミリア3勝目となった。同年6月のトリエステ−オピチーナ・ヒルクライムでは、ヌヴォラーリはアルファからスクデリア・フェラーリに運営が移管されたワークスマシンのP2で優勝を果たしている。それはローカルなヒルクライムであったが、スクデリア・フェラーリにとっては初の勝利となった。
 
1932年に息子のアルフレード(ディーノ)が誕生したのを機に、エンツォはレーシングドライバーとしてのキャリアに終止符を打ち、アルファロメオ・チームのレーシングマネジャーとなっている。さらに同年、ヌヴォラーリはアルファロメオのワークスドライバーとして欧州チャンピオンの座についた。まさに、各自がそれぞれの専門分野で本領を発揮しはじめたのである。
 
翌1933 年にはスクデリアが大きく発展する転機が訪れた。それは、アルファロメオが財政難によって国有化され、ワークスチームとしてのレース活動を休止するという苦渋の決断を下したことだった。創業間もない時期から続くレース活動はアルファロメオのアイデンティティーであり、開発・販売に欠かすことができなかった。そこで、これまでもアルファのレース活動を運営してきたスクーデリア・フェラーリに、最新鋭のワークスマシンを移管することでレースを継続するという打開策を選択した。チームドライバーも引き渡し、さらにマシンに対する技術的支援も行う体勢を組んだ。
 
こうした環境の中で"職人"ヌヴォラーリは、エンツォ・フェラーリがマネージメントするアルファをドライブして、勝ち星を積み重ねていった。 その間のエピソードは枚挙に暇がないが、逸話として語られているのが1935 年にニュルブルクリンクで開催されたドイツGPと、36年のアメリカ、ヴァンダービルド・カップであった。
 
この時期、ドイツはモータースポーツを国威発揚の手段のひとつとして位置づけると、ダイムラー・ベンツとアウトウニオンに資金援助し、ドイツ流の完璧な設計思想で造られた"シルバー軍団"がレースを席巻するようになった。これに対して、アルファロメオは名作の誉れ高いティーポB(P3)で臨んだが、1932 年に初投入というマシンは、ドイツ勢を前では旧態化が著しかった。機構的に比較にならないほど古く、エンジンは150 馬力近く非力で、最高速度が50km/hも遅かった。

こうした逆境のなかで行われたドイツGPでは、P3に乗るヌヴォラーリは5台のメルセデスと4台のアウトウニオンを敵に回して、神がかったドライビングで周回を重ね、ドイツ勢を次々に離脱させて、勝利をもぎ取った。ホームコースでのドイツ勢による圧倒的な勝利を疑わなかったレース主催者は、イタリア国歌のレコードも国旗も用意しておらず、ヌヴォラーリが持参したものを差し出したというエピソードが残っている。

 


翌1936年、44歳になったチャンピオンは非力なP3を操って4勝を果たした。同年10月、アメリカのヴァンダービルド・カップに遠征したヌヴォラーリは、並み居る強豪を抑えて2位に大差をつけてゴールに飛び込んだ。こうした偉業に対し、エンツォ・フェラーリは金銭による報酬のほか、スクーデリアのドライバー選択などナンバーワン・ドライバーに相応しい手厚い待遇を用意した。
 
だが、1937年になるとアルファロメオの戦闘力低下が今までにも増して顕著となり、タツィオも自らの病に加え、長男ジョルジョが死去したことで憔悴していった。ついに1938年シーズンの途中の7月、スクーデリアから離れてアウトウニオンに移籍する決断を下した。アウトウニオンGPカーはミドエンジンを採用したことで乗りこなすには高い技量を必要としたが、ヌヴォラーリはたちまち習得し、モンツァ(伊)、ドニントン(英)、ベオグラード(ユーゴ)と勝ち進んでいった。だが、欧州での軍靴の響きはいっそう高まり、病が次男のアルベルトの命さえも奪っていった。
 
エンツォ・フェラーリはといえば、レースの運営を巡って経営陣と衝突し、1939年にアルファロメオを去って独立する道を選んだ。そして間もなく、欧州は激しい戦禍の中に引き込まれていった。

文:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Words: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.)

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