元オーナーが語るイタリアの高級自動車メーカー イソのすべて

Portrait:Mark Dixon



当時、ピエロは工学を学ぶ大学生だった。「父は私を大学に行かせたがったが、私は大学で時間を使い過ぎるのは望んでいなかった。必要なことだけ学べばいいと考えていたんだ。24歳で卒業すると、真っ直ぐイソの事務所に戻った。
当時、私と父と同じ広い部屋で一緒に働いていた。父が大きな机で、私が小さな机だ。ところが卒業した日に戻ってみると、父はすっかり模様替えをして待っていた。『ほら、そっちがお前の机だ』と言って大きな机を指さしたんだ」

ピエロは以前から、良質だが手堅いGTだけでなく、さらに刺激的なモデルを開発しようと父親に訴えていた。こうして誕生したのがグリフォだ。1963年のトリノ・モーターショーでは2バージョンがデビューした。イソのブースにはラグシュアリーなA3/Lが、ベルトーネのブースにはレース仕様のA3/Cが展示された。

「華やかさと、ちょっとしたインパクトを加えるのが目的だった。グリフォはグリフィンという意味だ。名前はベルトーネのアイデアで、父も気に入っていた。私たちの古いヴィラには、あちこちにグリフィンが描かれていたからだ。ロゴをデザインしたのは妻だよ。彼女は昔から芸術家だった」とピエロは説明してくれた。



だが、ベルトーネとの関係は常にバラ色ではなかったという。
「ベルトーネは、品質の面では最悪だったよ。アメリカで起きた問題のひとつが雨漏りだった。あんまりヒドいので、その修理専門の小さな部署をイソに作ったほどだ。父が亡くなったときには、葬儀に列席したベルトーネに向かって、ファクトリーのマネージャーが『この責任の大半はあなたにある』と言ったくらいさ」

ピエロは真剣な表情になって「死因はストレスだった。父はごく初期の白血病を患っていたが、うまく抑え込んでいたんだ。ところがストレスで急激に悪化し、病院に運ばれたが、あっという間に亡くなってしまった」と続けた。

1960年代後半はイソにとって苦難の時代だった。アメリカの代理店が契約をまっとうできなかったため、売れ残った大量のGTが在庫となってしまったのだ。ピエロはやむなく従業員を一時解雇にし、一部の仕事を下請けに出した。それでも、社員との関係は常に良好だったとピエロは振り返る。



「私たちには強い絆があり、みんなが仕事を愛していた。製造ラインの職人に、事務職より高い給料を払ったこともある。それで苦労もしたが、私にとっては、車を造る人間のほうが小切手を切る人間より大切だったんだ」

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO( Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words and Portrait:Mark Dixon

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