レースを追い続けた ゴッドファーザー│タルガ・フローリオを再訪する

Photography:GP Library

シチリア島で繰り広げられた伝説的レース"タルガ・フローリオ"のコースを、タルガでの取材経験が豊富なベテランジャーナリストのダグ・ナイが久しぶりに訪ねた。

数カ月前、私はタルガ・フローリオを題材とするドキュメンタリー番組「シチリアン・ドリーム」の制作を手助けするため、イタリアのシチリア島を訪れた。ある世代のモータースポーツファンにとって、タルガ・フローリオはもっともドラマチックで、もっともロマンチックで、もっともカリスマチックなレースだったことは皆さんもご存知のとおりである。


1970年、カンポフェリーチェ・ディ・ロッチェラ いかにもシチリアの人々らしい熱狂振り。ワークス・フェラーリの512S を駆るのは、地元カンポフェリーチェ・ディ・ロッチェラ出身のニノ・ヴァカレラ。ジェフ・ゴダードが往年のタルガを臨場感たっぷりに捉えた名作だ。後にジェフは「あの写真だけは狙って撮影したものだった」と私に打ち明けてくれた。現在、この通りは大半が歩道とされ、しかも坂を上る方向の一方通行とされている。

シチリア島を舞台に繰り広げられるタルガ・フローリオは、クント・ヴィンチェンツォ・フローリオという男の手により1906 年に初開催された。家族とともに地中海-アメリカ航路の海運、マグロ漁、マグロの缶詰工場、マルサラ・ワインの醸造といった事業を手がけていたフローリオは、自分の生まれ故郷であるシチリア島に多くの観光客が訪れることを願って、このモータースポーツ・イベントを企画したのだ。


1973年、ピットレーン 世界選手権として開催された1973年のタルガ・フローリオ。ピットレーンで2台のフェラーリ312PB(ドライバーはNo.3がアルトゥーロ・メルツァリオ/ニノ・ヴァカレラでNo.5がジャッキー・イクス/ブライアン・レッドマン)に挟まれているのはNo.4のワークス・ランチア・ストラトス(サンドロ・ムナーリ/ジャン-クロード・アンドリュー)。2台のスポーツプロトタイプがトラブルに見舞われたのに対し、ラリーカーに近いストラトスが2位に入ったのは時代が移り変わったことの象徴か。近年、ピットレーンは地元の愛好家たちの手で修復された。いまもフローリオの面影を残しているのは嬉しい限りだ。


競技が行われるコースは何度か変更された。当初はマドニエ山脈と島の北西部分にあたる海岸線を結んだ一般公道を用い、距離は148 ㎞。グランデ・マドニエと呼ばれるこのコースは1906 年から1911年まで使われた後、1931年にも再使用された。1912年から1914 年までは島を一周巡る全長975㎞のコースに改められ、1948〜1950年にはこれがさらに拡大されて1080㎞となった。

いっぽう、もともと148㎞だったグランデ・マドニエは二度にわたってコースが短縮されている。1919 年から1930 年にかけて用いられたメディオ・マドニエは全長108㎞、そして1932〜1936年には全長72㎞のピッコロ・マドニエと呼ばれるコースで開催された。1951〜1958年には島の海岸線を一周するジーロ・デ・シチリアという名のイベントが別に行われ、これはイタリア本土で繰り広げられるミッレミリアの前哨戦と位置づけられていた。


1951年(第35 回)から1977年(第61回)まで舞台となったのが、ピッコロ・マドニエであった。ここでのファステストラップは、1970年にガルフ・ジョン・ワイヤー・チームのフィンランド人ドライバーであるレオ・キヌーネンがポルシェ908/3を駆って記録したもので、タイムは33分36 秒。その平均速度は128.571㎞/hに達した。


1972年、ビヴィオ・ラ・マンナ アルトゥーロ・メルツァリオがドライブしているのは、フラット12エンジンを搭載したワークス・フェラーリ312 PB。メルツァリオはこの年のタルガで優勝した。コースとなっている古い橋の上に、開通したばかりのアウトストラーダA19の高架橋が見える。この古い橋はいまも残っているが、新しいバイパスがその後完成したため、もはや人通りはほとんどない。この周辺に半ばうち捨てられた道路は少なくなく、ピッコロ・マドニエもいまや徒歩でなければ周回できなくなっている。


私自身も子供の頃からタルガに憧れていたクチだが、やがて同僚やカメラマンとともにこのイベントを取材する機会を得るようになった。なかでも忘れられないのが、タルガ・フローリオを愛してやまなかった偉大なカメラマン、ジェフ・ゴダードと取材した当時のことである。

それから時は過ぎ、数年前にあるウェブサイトを通じてニニ・ヴェンツレッラという人物からコンタクトがあった。地元のカンポフェリーチェでタルガ・フローリオに関するミュージアムを運営している彼は、ジェフが撮影した写真を私に提供してくれないかと申し出てきたのだ。


1964年、チェルダ チェルダの街を抜ける最後のコーナーが、ジェフ・ゴォダードお気に入りの撮影ポイントだった。1964年に撮影された向かって右側の写真は、轟音を立てながらワークス・シェルビーのコブラを操るダン・ガーニーを捉えたもの。ジェリー・グラントと組んだダンは、この年、総合8位、3.0リッター超GT クラスの優勝を果たした。ただし、チームメイトの残る4台はいずれもマドニエのバンプでダメージを負った。このコブラはその後レストアされ、いまも走行可能なコンディションにある。


その要望自体には特別な感慨を持たなかったが、彼の苗字には強い関心を覚えた。当時の取材仲間、そのなかには私やジェフのほか、かの有名なデニス・ジェンキンソンも含まれているが、私たちの間で有名な笑い話に"エルネスト巡査"というものがあった。カンポフェリーチェ出身の警官が戦時中に捕虜となってイギリスのミッドランドに囚われていたのだが、その男が奇妙なシチリア-バーミンガム訛りで話をするという物語で、このエルネスト巡査の苗字がまさにヴェンツレッラだった。

そこで問い合わせてきたニニのメールへの返信として「あなたの親戚か」と訊ねたところ、「なぜ、私の父を知っているのですか」という驚きのメッセージが届けられたのである。


1973年、フロリオポリのスタート地点 世界選手権としては最後の開催となった1973年タルガ・フローリオの予選に挑むため、フロリオポリのスタート地点から猛然と発進するヘルベルト・ミューラー/ジス・ヴェン・レネップのマルティーニ・ポルシェRSR。現在のフロリオポリは人気もなくひっそりと佇んでいるが、写真の向かって左側には、古びたコンクリート製のグランドスタンドが、そして右側にはピットレーンにつながる通路が見える。フロリオポリは、いまも世界中のファンから「もっとも思い出深いモータースポーツの記念碑」と慕われている。


私がシチリアを訪れ、ニニとの初対面を果たしたのはこのやりとりの10年後のことだ。しかも、出発の前に自宅の仕事部屋で探し物をしていると、どさっと崩れ落ちた資料のなかから、驚いたことに1964 年タルガ・フローリオのレースプログラムが現れたのである。それを手にとって拾い上げたとき、あまりの偶然に総毛立つ思いがした。なんと、プログラムの間からジェフの写真を貼り付けたプレスパスと、取材用のカーパスが滑り落ちてきたのである。

これらの手土産を持って訪れたシチリアでは、予想に違わず素晴らしい経験ができた。しかも、チェルダ村の近くでは、ジェフのお気に入りだった撮影ポイントを偶然にも見つけ出したのである。私はその丘に登って何枚か写真を撮ったのだが、直後に斜面から滑り落ちていばらの藪に飛び込んでしまった。おかげで、買ったばかりのチノパンにはかぎ裂きができ、私も身体中に擦り傷を負った。


1967年、コレッサーノ ピッコロ・マドニエのコース中、丘の上に立つもっとも美しい村といえば、間違いなくコレッサーノ村だろう。ジョー・シフェール/ハンス・ヘルマンのポルシェ910/8がこの村のヘアピンコーナーを立ち上がろうとしている写真をジェフが撮影したのは1967年のことだ。シフェールとヘルマンはこの年、6位でタルガを走り終えた。上の写真はシチリアン・ドリームの撮影風景。アラン・ド・キャドネとフランチェスコ・ディ・モストのふたりが鼻歌交じりでフェラーリを操っている。時代は遠く離れているが、石造りの古い建物はまったく姿を変えていない。


このとき私のドライバー役を務めていてくれたのは、ニニの知り合いでやはりタルガ・フローリオの歴史に詳しいアントニオ・ロンバルディという男だ。そのアントニオは運転席に腰掛けたままだったので、私の身に降りかかった災難には気づかなかったらしい。おかげで私が後席に乗り込んだとき、彼はひどく動揺した様子でこちらをのぞき込んだ。しかし、私はなにも説明することなく、ただひとことだけこう言った。「アヴァンティ(前に進め)!」と…。


1970年、カンポフェリーチェ・ディ・ロッチェラ カンポフェリーチェ・ディ・ロッチェラにやってきた競技車の一群は、シチリア島の北側の海岸線にぶつかったところで左に向きを変えて教会の脇を抜けると、ベルヴェデレ・コーナーに進入。目の前にはティレニア海が大きく広がることになる。その先の坂を下ると、全長5.6km ほどのブオンフォルネッロ・ストレートが始まる。左コーナーに差し掛かっているのは、ヘルベルト・ミューラー/マイク・パークスが駆る、スクーデリア・フィリッピネッティのフェラーリ512S。その直後では、ガルフJWのポルシェ908/3がオーバーテイクのチャンスを窺っている。512S は6位でフィニッシュ。この古い通りもいまは美しく舗装され、一部が歩道となっている。

編集翻訳:大谷達也 Transcreation: Tatsuya OTANI Words:Doug Nye 

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