世界で一番有名なカスタムカーを作り上げた男の知られざる物語



ジェフリーズとバリスの関係は順調に続いたが、1957年、バリスの仕事場が火事になった時から関係に亀裂が生じ始めた。火災が起きた時、ジェフリーズは軽い食事を取るために道の反対側にいたが、消防隊員の制止を振り切って店内に入り、彼のガールフレンドの56年式シボレーを引っ張り出した。だが難を逃れたのはこの一台だけだった。

そして二人の関係は更に悪化する。有名なモンキーモービルを含む、ジェフリーズが造り出した車の功績はすべて自分のものだとバリスが主張した、とジェフリーズは述べている。この確執はその後40年に渡り続いた。

火災の後、ジェフリーズはハリウッドへと居を移し、サンセット大通りに店を構えた。ハリウッド自体はカフエンガ大通りまでで終わっていた時代に、彼はあえてそこに居を移すことにした。この、ハリウッドへの移転という選択がディーン・ジェフリーズのキャリアを大きく変えることになる。それこそが、キャロル・シェルビーとの出会いだ。

財政的に厳しかったシェルビーが、最初のコブラのプロトタイプ(CSX2000)を造ったのは1962年のこと。それはディーン・ムーンのホッドロッドショップで組み立てられた。

「シェルビーはその車を、たったの2~3人で組み立てようと思いついた」とディーンは言う。「それはひどい車だった。彼はそれを商売に結びつけようとしたが、車は一台しかなかった。でも、エンジンの取引のためにデトロイトのフォードへその車を持って行く必要があった。ボディをできる限り最高の状態にしたいから色選びを任せたい、と彼に言われたので、私はパールイエローを選んだよ。でも彼は代金を支払えなかった。お金が全くなかったのさ。」



「その車の造りはかなり粗くて、ボディ全体も雑だった。でも実際に走ることができたし、割と速かった。だから私はそれを本当に素晴らしく塗ってやったよ。その頃シェルビーはひどくオンボロなトレーラーとステーションワゴンを持っていた。コブラをそれに積んで、彼はデトロイトへ出発した。首尾よく彼はデトロイトへ到着して、皆をびっくりさせたんだ。この車は本当に良くできていた。とても軽くてパワフルで、そして機能的だった。」

「その旅の後、彼は私を呼んでこう言った。『何でも必要なものがあれば言ってくれ。君のために手に入れるから』。こうして我々の友情は今まで続いている。」ジェフリーズはそうほほえむ。

ヴォン・ダッチやバリスと仕事を始めて以来、ディーンは最良のカースタイリストやビルダーのひとりとして認められることを切望していた。でも、どうやって?シアトルへの旅でその答えが出た。ホテルの窓から見えたのは、海とマンタ。「他の誰もやっていないことを見つけたかった」とジェフリーズは言う。「そのカギは非対称のデザインだった。」

マンタからデザインのヒントを得たジェフリーズ。ベース車両が必要だったが、手頃なものがなく、彼は1939年式マセラティ8CTFグランプリカーを選んだ。「義理の父がヨーロッパからアメリカへ二台の8CTFを持ち込んで、何度かレースに参戦したのだが、大したパワーもなかったから、その二台はずっと裏庭の草むらに置かれていたんだ。この車を使って何か造りたいと言ったら、彼は許してくれたのさ。」

ジェフリーズはこの二台のマセラティを解体し、シャシーとサスペンション、ブレーキを使い、1/4インチのチューブでバードケージのフレームを造り、アルミのボディパネルを被せた。キャロル・シェルビーは289ciのフォードV8エンジンと、T-10の4速トランスミッションを提供。そしてマンタレイは1964年のオークランド・ロードスターショーで賞を得て、ジェフリーズの本物カスタマイザーとしての評判を決定的なものとした。

ホットロッドとカスタムでの成功にも関わらず、ディーン・ジェフリーズが心から大切にしているのは本当のレースだった。初めてインディを訪れたのはトロイ・ラットマンと行った1952年。それからほどなくジェフリーズはインディカーにピンストライプと文字を描くようになった。それが評判となり他のチームからペイントの依頼が殺到した。「一台で200ドル稼いだよ!」とディーンは大声で言う。「25ドルでも十分幸せだったのに!」

彼の技術は引っ張りだこで、一年にその場の33台のうち22台に彼はペイントを施したのだ。中でも、彼が長年ガソリンアレイで描き続けたのは、A.J.フォイトのインディ・ウイナーマシン、1961年式トレヴィス・ロードスターだ。だが、ジェフリーズとフォイトの努力の結晶は、実はまだ他にある。

「私はA.J.フォイトと一緒にデトロイトのフォードの施設でいくつかの風洞テストをしていた。その辺りをうろうろしていたときに、GT40のロードスターが保管されていることを知ったんだ。それで私はジャック・パッシーノにそれを売ってくれないかと聞いてみた。彼は、私がロードスターではなくて、クーペの方がお目当てではと聞いてきた。でも私は何か特別なものが欲しかったのさ。そうしたら彼はこう言ったんだ。『持って行け』と。他にも、何でも必要なものは持って行くといいと言ってくれた。私はいくつかのfour-cam 255ciのインディカーのエンジンと、427ciのV8を手に入れたよ。」

「今となってはそれを1000万ドルでもいいから売ってくれと、ずっと言われている。それに、多くの人からマンタレイのミッションを買うことを持ちかけられているんだ。でも、私は車をバラバラにするつもりはないよ。それが5ドルだろうが5000万ドルだろうが関係ない。そんなもんさ。」

レース、そしてカスタムの草分けとしての生活は十分すぎるものだったが、ジェフリーズの経歴に三度目の印象的な局面が訪れた。映画での車作りだ。

「デス・レース2000年(1975)」「ロマンシング・
ストーン 秘宝の谷(1984)」「ロジャー・ラビット
(1988)」、中でも一番はムーンバギーを制作した「007 ダイヤモンドは永遠に(1971)」だった。「我々はラスベガス郊外で撮影した。私はその車を作って撮影現場に持ち込み、調子を保つように撮影期間中はずっと立ち会うように言われたよ。」

「思い出深いのは007だな。映画監督はグラスファイバーとマグネシウムの軍用ホイールを持ってきて、それを付けてほしいと言ってきた。そのホイールはスープボールみたいに丸みを帯びていた。実際に砂漠で動かすまでは上手くくっついていたんだが、いざ走り出すとバギーは砂に飲み込まれてしまったよ。このホイールは1つ6000ドルもしたんだ。」

問題を解決するために、ディーンはそのムーンバギーを車に積んでハリウッドまで戻り、新しいホイールをセットして、一週間のうちにまた撮影現場へと戻ってきた。

「それまでこんなに大がかりな映画に携わったことはなかったな。」と彼は微笑みながら私に一枚の額に入った写真を手渡してくれた。写真に写っているのは、最初のカップ型のホイールを装着したバギーと、仕事中の彼の姿。「それに、ショーン・コネリーは本当にナイスガイだった。映画も素晴らしかったよ。」

カフエンガ大通りにあるジェフリーズの仕事場を、古くさい博物館のようなものとみなすのは間違っている。ここは今も活気あふれる生きた場所であり、ディーンは毎日ここへやってきて仕事をし、デザインし、車を造っている。彼は富や名声には興味がない。彼が大切にしているもの、それは愛する車、そして彼と一緒にいる仲間たちなのだ。

編集翻訳:堀江 史朗 Transcreation: Shiro HORIE Words: Nigel Grimshaw Photography: Matthew Howell

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