「ただ速く走るのが好きな人間」と自身を語る一人の女性の物語

octane UK

飛行機パイロット、自動車レーサー、宇宙飛行士と、とにかく彼女は男だらけの職業に女性が進出したパイオニアであった。彼女は自分のことを「ただ速く走るのが好きな人間」と語っている。

人は彼女を「命知らず」「スタント・ウーマン」「一番乗りのファースト・レディー」と呼んだ。ベティー・スケルトンが持つ航空機と自動車関係の記録の数は、男女を合わせても史上最多である。確かに父親が航空関連の仕事に就いていたが、それ以外は特段恵まれた環境にあったというわけではない。だが、挑戦するということに関して、ベティーは特別な何かを知っている女性であったようだ。

1926年生まれの彼女は、表向きには16歳で単独飛行を行ったことになっているが、実は12歳のときにすでに単独での飛行を経験している。そして1946年、彼女が20歳の時に曲芸飛行士としてデビューする。そのわずか2週間前に宙返りと横ロールをマスターしたばかりだったが、ベティーは初めてプロ飛行士として25ドルというお金を稼いだのだ。

すぐに彼女は航空界の注目の的となった。国際女性曲芸飛行選手権で1948年から1950年まで優勝を重ね、世界初も含めて数え切れない記録を打ち立てた。その飛行の中には逆さ飛行中にエンジンが途中で止まり、それでも機体をロールさせて安全に着陸させるという奇跡も含まれている。

1959年、彼女は米国初の有人宇宙飛行マーキュリー計画に、雑誌『Look』の企画取材として訓練に参加するチャンスを得た。そのプログラムには潜水訓練もあったが、彼女は実は泳げないことを告げずに合格している。7人のマーキュリー計画の宇宙飛行士は、小柄なベティーに「7と2分の1(マーキュリー7人の飛行士に次ぐ)」というあだ名をつけ、仲間として認めた。そのユーモアセンスを、ベティーはたいへん喜んだ。

彼女の飛行機「リトル・
スティンカー(小さな鼻つまみ者)号」には、パネルに大きな赤いボタンが有り、そこには「きりもみ、墜落、炎上」というラベルを貼ってしまうほど、彼女はジョークが大好きだったから。

しばらくは曲芸飛行に没頭したが、あまりにも多忙なエアーショーが辛くなったこともあり、50年代初めには興味の対象が自動車へと移っていった。1954年にNASCAR創設者のビル・フランスは、デイトナでのペースカー操縦を彼女に要請。それがきっかけとなって彼女はダッジによる砂上の速度記録「170.5km/h」を達成することとなる。ただ、はるかに速いスピードで曲芸飛行をしていた彼女にとっては、まったくストレスのないことであった。

この記録を打ちたてたことにより、彼女は自動車業界初の女性テストドライバーという仕事をクライスラー社で得ることになった。

その後のベティーの活躍は目覚ましい。まずAAA(アメリカ自動車協会)が認めた初の女性レーサーになると、いきなり1956年にキャノンボール(大陸横断レース)の記録を40年ぶりに破る。さらに彼女は女性による陸上速度記録を4回も塗り替えているが、その最後の記録は1965年、ジェットエンジン搭載マシンで出した最高速度約506.9km/hだった。

「もっと良い結果も出せたはずだけど、
300オーバーでさらに踏み込むと、いつもクルマが宙に浮いちゃって…」と彼女は語っていた。
 1956年デイトナでの高速走行テストでは、コル
ベットの父と称されたゾーラ・ダントフのチーム
メイトとなるなど、GM社とのパイプも出来た。
シボレーではテストドライバーと広報の2足のわら
じを履く活躍ぶり。さらに彼女は『コルベット・
ニュース』という社内広報誌を共同で創刊して編
集を担当。その後は系列広告会社においてGM社
のすべての広告を担当し、1976年に退職している。

編集翻訳:須川正道 Transcreation : Masamichi SUGAWA 原文翻訳:木下恵 Translation : Megumi KINOSHITA Words : Dale Drinnon

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