アメリカの「歴史遺産」という栄誉を得たシェルビー・コブラ・デイトナの数奇な運命

シェルビー・コブラ・デイトナ・クーペ(Photography: Michael Furman)



所有する者に幸せはやってきたか?
そのプロトタイプは南カリフォルニアに戻されると、こびりついた塩を完全に落とさなければならなかった。それは結構な作業だったので、キャロルは時間とお金を節約するためにグレートレックスに800ドルで塩漬けのレースカーを買わせようとしたが体よく断わられた。だがそれはデイトナ・クーペ・プロトタイプに第3の転機が訪れたことを意味していた。

世界中のコブラとGT40を網羅したレジスターブックによれば、1965年12月にジム・ラッセルという男が4500ドルで2287を購入したことが記されている。もちろん車は完全に洗浄され、機械部分は一新、ボディは新しくペイントされていた。彼は1年間所有したのちレコードプロデューサーで有名なフィル・スペクターに売却した。彼はマルホランドなどで大いにドライブを楽しんだそうである。5年間所有したあと、スペクターは元警察官のジョージ・ブランドに車を売った。ブランドはそれほど車を乗って楽しむ種類の人間ではなかったので、娘のドナが借りていたガレージでシェルビーを保管した。登録簿には彼女と彼女の夫のジョン・オハラはしばしばデイトナ・クーペを自宅から山小屋までの足に使ったことが記されている。登録簿には名義も彼らの名前に変わっており、車はそのルート上のガレージで常時保管されていたことも明らかになっている。

ここからがCSX2287の第4の人生だ。行方が分からなくなったのである。1980年代の初めにドナ・オハラの結婚生活は終焉を迎えるが、離婚手続きの中で彼女はデイトナ・クーペの全所有権が賠償金の代わりに与えられることになった。もしその前に売られていれば、彼女の元夫にも半分の権利があった。しかし離婚が成立したことにより彼女だけの名義で登録され、アナハイムの小さな保管庫に車は入れられた。

そのあとである、2287の行方が分からなくなったのは。シェルビーの愛好家の必死の探求にもかかわらず車は消えた。車だけでなくMsオハラ自身も行方知れずとなり、周囲の動揺は最高潮に達した。やがて彼女が発見されたとき、誰もが悲惨な結末に耳を疑った。 2000年10月に彼女は自殺したのである。

それと同時にシェルビーの流れ者としての第5の人生が始まる。ドナの遺品が確定されるまでに40日以上の時が過ぎた。彼女の遺産確定が公にされると、シェルビー愛好家は2287の保存を訴えた。なぜなら車をどうするか遺族に明確な意思はなかったからだ。ある日彼女の母親はマーティン・イヤーズという商売人からの手紙を目にする。そこにはぜひ車を購入したいという内容が書かれていた。彼女はイヤーズに車を売却、すぐさま彼は車を引き取った。

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編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation: Hidehiko OZAWA Words: Winston Goodfellow 

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