アメリカの「歴史遺産」という栄誉を得たシェルビー・コブラ・デイトナの数奇な運命

シェルビー・コブラ・デイトナ・クーペ(Photography: Michael Furman)



ふたりのキーパーソン
それから18カ月後、コブラは200台以上が作られ、数々のレースに勝利した。シェルビーはすでに王者の代名詞となり、アメリカでもっとも著名なチャンピオンシップを勝ち取るまでに成長した。

キャロルの夢はヨーロッパでも成功を収めることだったが、足元を見れば、ショップマネジャーであり製造責任者であるフィル・レミントンを含めてスタッフ全員が国際レースの経験なしとなれば、ヨーロッパに撃って出るなど夢のまた夢であった。

そのいっぽうで好材料もあった。彼らがいる南カリフォルニアはフェラーリの本拠モデナと同じように、技術レベルの高いレース関係者が数多く存在していた。何十年もホットロッドで飯を食っている者や、サンダー・アレイというレースカー製造者、板金加工業者、スタイリング会社、ボディ製造業者、それに航空産業の会社までが、カリフォルニアの底抜けに明るい陽光のもとで繁盛していたのである。そこには豊かな風景、適正な住宅価格、そして広大な土地があったので、世界中からやってきた人々は一度住んだら虜になり、二度とそこを離れようとはしなかった。

1960年代はじめのアメリカのサーキットはほとんどが短い直線と曲率の大きなカーブで構成されていた。だから最高速は必ずしも重要ではなかった。シェルビーはヨーロッパの強豪たちがミュルザンヌのような長いストレートを念頭に置いて設計されているのを知っていたので、これから作る車はACコブラの最高速160mph(約258km/h)が出せればよいと考えた。

これがコブラ・デイトナ・クーペ成功のキモである。キャロルはピート・ブロックに急いで車を設計するよう言い渡した。このときブロックはまだ20代後半、1950年代にGMにいた彼は1963年のスプリットウィンドウ・コーヴェットのインストゥルメンツをデザインした。シェルビーではスペシャルプロジェクトのディレクターに就任したが、スペシャルとは名ばかりで、実際は帽子やTシャツをデザインするのがいいところ。広告宣伝や、たまに車をテストするというのが主な仕事であった。

実際にそれらしい仕事をし始めたのは1963年の夏で、それがシェルビーからの命令だった。ブロックはすぐにスケッチを描いた。そのスケッチには会社の仲間に対するちょっとした抵抗を込めたのだそうだ。「理解しろといっても無理な相談だったんですが、当時の彼らは空力の重要性など理解できていなかった。だってドラッグレーシングや干上がった湖なんかで競争している連中にはエアロダイナミクスなどどうでもよかったし、ましてやロードカーに何が必要かなんて考えもしなかったんですからね」

彼のいう抵抗とはカムテールのことである。


カムテールは今日のアメリカ車にはほとんど見られないが、空力を重んじる思想はすでにこの車には流れていた

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編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation: Hidehiko OZAWA Words: Winston Goodfellow 

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