フランス車好きがフランス車を肴に、気ままに楽しむ。「第1回アロンフランセ車山」初開催!

Shunichi UCHIDA, Chizuko UCHIDA

10月15日、車山高原においてフランス車オーナーの集い、アロンフランセ車山の第1回目のイベントが開催された。主催はアロンフランセ車山実行委員会で、車山高原観光協会の協力によるもの。

きれいな景色の中を走って紅葉の中にフランス車を並べたい


秋の車山高原でフランス車の集まり?それはフレンチブルーミーティング(以下FBM)じゃないかと思われる方も多かろう。1987年秋に第1回FBMが開催され、以降毎年秋に開催し続け、コロナ禍においてはオンラインで行うなど、積極的に活動してきたイベントなので、その認知度はとても高い。

FBM始まり前夜、ビーナスラインなどの美しいルートがあり、そこをドライブしたあと紅葉の中にフランス車を並べられたらいいなという思いで、数人の好事家が車山を訪れた。その途中にフランス国旗がはためき、ペリエのパラソルがあるペンションを見つけた。皆、これはフランス好きに違いないとそこで食事をしながらそのペンションのオーナーにその話をしたところ、意気投合したことがFBMのスタートだったという。

最初は数十台からスタートし、イベントもジムカーナのみ。特にこれといった出店もなく食事は近くのペンションに食べに行くという、まさに手作り感満載の草の根イベントだった。そこから回を重ねるごとに規模が拡大。近年では3000台ほどのフランス車が集まる一大イベントに成長した。

しかし、メイン会場であったメイングランドに競技場建設が決まり、今までの規模のFBMは今後車山高原で開催できないとのFBM実行委員会の見解が出される。そこで次なる候補地を模索するため今年のFBMは一旦休みとなってしまった。

しかし、参加者からはなんとか開催できないかという熱い要望とともに、せっかくこれまで開催してきたのだから、規模を縮小してできないかと車山側と初期からFBMに携わってきた熱心なメンバーが協議を重ねた結果、大幅に規模を縮小し、かつ、事前申し込み制としての開催にこぎつけた。そこにあるものは主催者と協力者、参加者という区別ではなく、同じ仲間という連帯感、絆が感じられるものだった。

変わらないものと変わったもの


今回の申し込み台数は約700台。そのうちシトロエン2CVは100台を超すエントリーとなった。これは生誕75周年を祝うパレードランなどが企画されていたからだ。そこには普通の2CVだけでなく、ツインエンジンのサハラ、フルゴネット、メアリなども参加し、2CVの歴史の深さと多様性を感じさせるものだった。





もちろん参加車はシトロエンだけではない。ルノーは4が20台以上参加していたし、中には珍しいルノー10やアルピーヌA110、プジョーは205や309やなど、現代車だけでなく少し古い車も元気に参加。この分け隔てなく“フランス車が好きな人は集まって”というほのぼのとした雰囲気は昔から変わらないものだ。







イベント当日はあいにくの雨。それでも朝8時に会場がオープンになると、続々と参加車が集まってきた。少し薄暗い中、イエローバルブを点灯したシトロエンCXをはじめとしたさまざまなフランス車がスタッフの誘導に従って指定の駐車スペースに向かうさまは昔ながらのもの。



一方で大きく変わったのは興行的なものが一切なくなったことだ。近年のFBMはアイドルグループがステージに立つなどの催しがあったが、今回はトークショーやクイズ、じゃんけん大会が行われた程度で、参加している人たちは、そこに参加するもよし、久々に会った友人たちと話し込むもよし、好きな車を探して駐車場を周るもよし、そして、じゃんけん大会の商品を提供するなどでイベントに全面協力したステランティスジャパンによる物販や試乗車に乗るもよしと、本当に気ままに楽しんでいた。



75周年2CVトークショーやパレードはここならでは


今回はシトロエン2CV生誕75周年ということもあり、イベントの幕開けはシトロエン2CVの歴史紹介と題し、シトロエン、特に2CVを極めている識者やオーナーが開発秘話などを交えながら語ったのだ。時間になり三々五々集まった参加者たちはそのトークにうなずいたり、知らないことがあると、そうなのかと呟いたり、皆真剣に耳を傾けていた。

その内容を少しだけ記しておこう。のちに3代目シトロエン社社長になるピエール・ブーランジェは、バカンスで田舎に赴いたとき、農民が手押し車を使っていて、まだ自動車が普及していなかったという事実を知り、そこから小さな車の必要性を感じたという。

そしてそのコンセプトは、50kgのポテト、または樽を積んで作業着のまま乗れること。60km/hで走れること。3リッターのガソリンで100km走れること。車両重量300 kg以下。荒れた農道を走れ、そのときに籠いっぱいに卵を積んでも割れないこと。必要であれば運転に不慣れな人でも運転できること。販売価格は11CVの1/3以下であることが求められた。

1934年から開発が始まり、36年に最初のプロトタイプが完成。シトロエン社に保存されている1938年式と呼ばれるモデルもこの過程で生まれたものだ。この年のモデルは250台作られたといわれているが、実は既に市販予定で、1939年のパリサロンでお披露目する予定だったのだ。しかし、この年に第二次世界大戦が勃発し、市販化に至らなかった。この2CVのプロトタイプはトラクションアヴァンのラジエターを積んで、水冷エンジンで開発が進められていたが、戦後、ワルテル・ベッキアというエンジニアがタルボから移籍し2CVの開発に関わることになる。最初に手を付けたのが水冷エンジンの空冷化だった。その水冷エンジンは必要なパワーが出ておらず、エンジンのかかりが悪いというもので、ベッキアのお眼鏡に適わなかったのだ。そして1948年にパリサロンで2CVはデビュー。翌年から生産が開始されたのである。

1938年のプロトタイプたち

そのほかツインエンジンのサハラは1954年に開発スタート。より走破性の高い車の要望から四輪駆動としてパナールとの共同開発で、生産もパナールが行なったことや、特別仕様車のドーリーは1985年3月にデビューし、そのネーミングの由来はアメリカのミュージカル、ハロードーリーからとられたこと。エンターテインメント性を持った容姿で、これは女性の2CVオーナーが増えてきたことからそこに着目したこと。その生産台数は6327台だったことなどが語られた。

シトロエンサハラ

そして、2CVのパレードは車山高原内を100台以上がゆっくりと走るもの。そのテープカットには茅野市副市長の柿沢圭一氏や車山高原観光協会会長の稲葉浩一氏も駆けつけるなど地元の期待の大きさが感じられた。また象の国(?)から、ぞうのババール夫妻も来場しパレードランに華を添えた。パレード中はキャンバストップから体を乗り出し見学者に手を振るなど、私有地内だからこそできるパフォーマンスでその場を大いに盛り上げていた。この規模はフランスにも伝わっており、本国からラジオ局RTLとTV局TV5も取材に訪れるほどだった。









第1回アロンフランセ車山を取材して感じたことを素直に記すと、初期のFMBに参加しているような気持ちになった。手作り感満載で、スタッフも参加者も関係なくこのイベントを楽しもうという気持ちがすごく伝わって来たからだ。ステージのライブパフォーマンスなども楽しいが、そうではなく、純粋にフランス車好きが集まって車を肴に語り合うという当時の雰囲気が蘇って来ていたのが単純に嬉しかった。

最後にとても大切なことを記しておこう。イベントが終わり2日間ほどかけて車山高原の方達が撤収をしてくれたのだが、ごみ一つ落ちていない素晴らしい状態だったとのこと。こういうことがイベント継続にとても重要なことなのだ。


文:内田俊一 写真:内田俊一・内田千鶴子 取材協力:本多英揮氏・原嶋明男氏・車山高原リゾートイン ウインズ
Words: Shunichi UCHIDA Photography: Shunichi UCHIDA, Chizuko UCHIDA
Special thanks to Mr. Honda, Mr. Harashima and KURUMAYAMA KOGEN RESORT-INN Winds

内田俊一

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