いまも人を驚かせる、マクラーレンF1の純粋な造形|熱狂の裏に潜んだ真実【後編】

Tim Scott

この記事は「マクラーレンF1は「きっと、いまから100年経っても孤高の存在」|熱狂の裏に潜んだ真実【中編】」の続きです



STORY 2:スティーヴン・ベイリーが語る発表当時のインパクト


デザインの専門家にして社会評論家のスティーヴン・ベイリーが、F1が発表された当時のインパクトと、デザイナーの類い希な車作りの思想について語る。



マクラーレンF1は新時代の到来を告げる車ではなく、古い時代の終焉を宣言する車だった。なぜなら、ゴードン・マーレイが作り上げたのは「究極のアナログカー」だったからだ。エンジンに過給器はなく、ブレーキやステアリングはアシスト機構を持たない。後から追加されたものはひとつもないが、そのかわりに、事前の検討は徹底して行われた。こうしてできあがったのは、内燃機関とギア、そして摩擦材の集合体であり、空気の流れに関する周到な洞察力だった。

それは、恐ろしく洗練された単純化の探求であった。そのスタイリングは、著名で物腰の柔らかいデザイナーであると同時に、どこかその作品とよく似たピーター・スティーヴンスが生み出したものだ。マクラーレンF1は常識外れの速さを備えているのに、乗り心地は洗練されている。そしてダイナミックかつ知的なドライビングを至高のレベルで体験できる。これが芸術でなかったとしたら、なにが相応しいというのか?



その極めつけに純粋な造形は、いまも人を驚かせる。ランボルギーニが、明るい色調で「僕を見て!」と訴えかけるドルチェ&ガッバーナのようだとすれば、F1は無駄のない美の修辞に関する作品集であると同時に、ていねいに作り上げた金言集のようでもある。それは、イギリスの紳士服作りとも似ている。細心の注意を払い、手間ひま惜しまず作り上げられた良質な工芸品といってもいいだろう。よく、上品に着こなした紳士の存在に気づくには数分を要するといわれる。並外れたデザインが施されたこの車の真の価値を知るにも、それなりに時間がかかるはずだ。そして、このように控えめな造形とされたのは、なによりも作り手の強い自信を示すものといえる。

まだ早熟な男子生徒のひとりに過ぎなかった私は、ある日、ブルース・マクラーレンと出会った。ウェイブリッジの工業団地のなかにある、「ブルース・マクラーレン・モーター・レーシング・リミテッド」の看板を掲げた小さな納屋のような建物。私は自分が描いた独立式リアサスペンションの設計図を持って、そこを訪れた。オーバーオールを着た人影が見えたとき、心がときめいた。「やあ、調子はどうだい?」彼はそう言うと、私と握手を交わした。

およそ20年後、私はまだ準備期間中だったロンドンのデザイン博物館にいた。私のオフィスには、ディーター・ラムス、マリオ・ベリーニ、エットレ・ソットサス、ノーマン・フォスター、オトル・アイヒャー、そして三宅一生といった興味深い人物が引きも切らずに訪れていた。そうしたなかに、まだアロハシャツを着てF1ピットレーンをうろついていた時代のゴードン・マーレイがいた。裸のグレース・ジョーンズを象った等身大のポリプロピレン製彫像(三宅一生がくれたものだ)がバウハウス調のカーペットに横たわっているのを横目で見ながら、ゴードンはブラバムBT33のノーズコーンを制作するための木型を寄贈したいと申し出た。後に彼は、驚くべき車を作ろうとしていると私に教えてくれた。パトリック・ルケマンがデザインしたルノー・エスパスを彼が敬愛して止まないことを知っていたので、きっと高性能なマルチパーパスカーを作るのだろうと私は推測していた。それはそれで魅惑的な存在だ。だから、初めてマクラーレンF1の実物を目にしたとき、私は少し落胆した。ミッドエンジン・レイアウトが織りなすドラマチックなプロポーションは、エンジニアとデザイナーにとっては比較的、容易に作れるものだ。ただし、視界などの人間工学を軽視したそうした作品は、スーパーカーという世界でしか生き続けることができない。そもそも、われわれにはすでにフェラーリがあった。だから「なんで、いまさら?」という思いが拭いきれなかったのである。

けれども、「上品に着こなした紳士」に気づくのに時間がかかるのと同じように、私は徐々にマクラーレンF1というものを理解していった。もしもボルトやナットに関心をお持ちなら、それらを賛美するエピソードをご披露しよう。ある日、ゴードンは美しい手作りのチタン製ボルトを私に見せてくれた。さて、その値段はいかほどだろうか? 1986年のロサンジェルス・タイムズによると。アメリカ海軍はシンプルなナットひとつに2043ドル(当時のレートで約49万円)を支払ったという。つまり、これがひとつの指標となりうるわけだ。 細部へのこだわりは偏執狂と紙一重であり、だからこそ魅力的で賞賛に値するともいえる。金箔はエンジンルームの遮熱材として使われた。F1において、重量は美徳と悪徳のメタファーといって差し支えない。コーリン・チャプマンと同じように、マーレイもシンプルな設計が軽量化を可能にすると信じていた。F1のキャビンには装飾用の金属製パネルが貼られている。これが「軽量の神に対する冒涜」と思われるのであれば早計である。このパネルの厚みは、たったの0.5mmでしかないのだ。

本当に驚くべきは、F1が高価なことではない。けれども、そうした狂信的ともいえるこだわりは、常に現実社会の対価を要求するものである。

行動主義心理学者の間で広く知られた現象がある。なにかしらの改良を求める者は、新しい要素を追加したがるという。けれども、本当の天才は、なにかを取り去ることで改良を成し遂げる。これこそ、マクラーレンF1の真髄というべきものだ。余剰なものはなにひとつない。すべてのパーツには、最小の複雑性によって達成される目的がある。ル・マンを戦ったF1に巨大なリアウィングが必要だった理由は、私にもよく理解できるが、それは明らかな間違いだった。完璧なものを壊してはならないのだ。

ドイツの建築家であるハインリッヒ・テッセノウはこう語った。
「最善のものは常にシンプルだが、シンプルなものが常に最善とは限らない」恐ろしく洗練されたマシンをシンプルと呼ぶことは、もしかしたら間違いかもしれない。けれども、マクラーレンF1は最後の偉大な車だ。それがシンプルである、という点において。



乗り降りの際にはアクロバティックな体勢になるものの、セントラル・ドライビング・ポジションはマクラーレンF1の極めてユニークな特徴といえる。


編集翻訳:大谷達也 Transcreation: Tatsuya OTANI 
Words: Stephen Bayley Photography: Tim Scott

オクタン日本版編集部

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