プリンス自動車工業「1900スプリント」が60年の時を超えて蘇る! 特別展示を実施中

Kumataro ITAYA

この写真は、1963年にプリンス自動車工業が東京モーターショーに展示した、プリンス・1900スプリント、というクルマである。1963年といえば今から60年も前のこと。純国産で、このようなクルマが存在していた。

現車は1985年頃に廃棄処分となり、プリンス自動車工業と同様に、現存していない。それが、現在に蘇り、10月24日(火)まで、横浜の日産グローバル本社1階のギャラリーに展示されている。

以下に、ざっと関連するいきさつを記してみたい。

プリンス・1900スプリント


まずは簡単に、プリンス・1900スプリント(以下「1900スプリント」)について。

1900スプリントは全長4015mmほどのコンパクトな4人乗りクーペ。デザインしたのは、プリンス自動車工業(以下プリンス)設計課所属のデザイナー井上猛氏。製造はプリンスの三鷹分工場試作課の日本人職人たち。ベースとなっているのは、S50スカイラインである。

1900スプリントは、デザイン、製造、ともに日本人以外の手を一切頼っていない、純国産車。これが1900スプリント最大の特徴になっている。

それでは早速、1985年頃に廃棄処分となった1900スプリントが、現代に蘇るまでの経緯をみていこう。

プリンスとイタリア


1900スプリントの復刻には、拙著「プリンスとイタリア」が関与している。

プリンスとイタリアは、スカイラインスポーツや1900スプリントが生まれるまでの経緯をできるだけ詳細に明らかにしようとしている、まずはプリンスとイタリアを書くきっかけになった話から。

中川良一氏


プリンスは戦前の立川飛行機と中島飛行機の流れをくむ会社。わたしの母校は、中島飛行機の中央研究所をそのまま利用しており、中島飛行機時代の滑走路も、両脇に桜が植えられ、現在は桜の名所になっている。加えて、わたしの専攻は企業間交渉。卒論にはプリンスと日産の合弁をとりあげた。

そのような背景から、わたしが日産に入社した当時、日産の役員をしておられた中川良一さんに、無謀にも懇談を申し込んだ。

中川さんは中島飛行機で天才エンジニアと呼ばれていた方。若くして誉エンジンの主任設計者になり、配下には、スバル360の生みの親、百瀬晋六氏や、ホンダF1の父、中村良夫氏らがいる。

中川さんとの懇談で今も印象に残っているのは、液冷エンジンの冷媒に燃料を用いようとした話。中川さんによれば、冷媒に燃料を活用することにより、エンジンの冷却にしか用のない水を廃することで重量軽減になり、その分、燃料も多く積むことができる。更に、燃料を冷媒にすることで燃料自体も温められるので、性能的にも向上する。悪いことなし、と試作機をつくった。ところが、テストパイロットたちが恐れて誰も試験飛行をしてくれない。安全性に全く問題はないのに、感覚的に恐怖を感じているテストパイロットたちに、ほとほと愛想が尽きた。と話していた。

そんな懇談の最後に中川さんから見せられた写真がこれ。



村山工場の奥に眠る3台の不思議なクルマたち。右奥から1900スプリント、小型スポーツCPRB、そしてCPRBのベースになっている国民車CPSK。

CPRB


中川さんは1959年に、自動車デザインの素人だった井上猛氏をイタリアに派遣する。プリンスデザインに刺激を与えるのがその理由のひとつだったと考えられる。井上さんの研修先がフランコ・スカリオーネの工房だった。

スカリオーネは元々飛行機が好きで、航空業界で働きたいと考えていた。ところが、イタリアは日本やドイツ同様、航空機の製造が禁止されてしまう。やむなく身を投じたのが自動車業界。スカリオーネの工房の堅い扉を開いたのは中川良一さんだった。飛行機好きのスカリオーネにとって、航空界の天才エンジニアとして名高い中川さんは畏敬の存在。スカリオーネは中川さんの撮影した写真では、スカリオーネには珍しくスーツ姿でネクタイまできちんと着用している。

井上さんの研修中に、中川さんの勅命によりスカリオーネがデザインしたのが小型スポーツのCPRB。木型までをイタリアでつくり、プリンスの職人たちを教育するため、木型は4名のイタリア人職人たちと共に日本に送られた。



このCPRBは、イタリア人職人たちの指導により、プリンスの三鷹分工場でつくられている。実際に手を下したのは、イタリア人職人たちがほとんど。日本人職人たちにお手本を示したのである。



この写真は国民車として企画されたCPSK。CPRBのベース車両である。残念ながら、プリンスの実質的なオーナー石橋正二郎氏の、プリンスは高級車に専念する、との鶴の一声で生産されることはなかった。CPSKが消滅したことにより、CPRBも生産化への道が閉ざされてしまった。

日産アーカイブス


以上のようなCPRBに関わる詳細情報は、日産アーカイブス、という活動で明らかになったもの。ありがたいことに、温故知新の活動、日産アーカイブスの発足時から、プリンス関連の調査にあたるグループに加えていただいている。

日産アーカイブス活動によって、多くのプリンス関係者に話を聞き、また、井上猛氏のご子息とのご縁もできた。これらが、なんとか、プリンスとイタリア、を書くことができた背景である。

1900スプリント


さて、いよいよ1900スプリント。小型スポーツのCPRBは国民車企画CPSKの頓挫により生産化の可能性が消滅。なんとかスポーツの芽を息吹かせようとする中川さんは、次の手に打って出た。S50スカイラインをベースにしたスポーツ車両。デザインはスカリオーネに依頼せよ、との命が下る。

ところがスカリオーネとは全く連絡が取れない。井上さんを工房で引き受けた謝礼や、CPRBのデザイン料で潤った彼は、イタリア人らしく、女性を伴って旅行に出てしまい、全く連絡が取れなくなっていたのである。

スカリオーネに代わり1900スプリントのデザインを行なったのが、スカリオーネの弟子たる井上猛氏。井上氏は誰の手もかりず、ひとりで1900スプリントのデザインを仕上げることになった。尚、車両が完成してしばらくの後、ようやく連絡が取れるようになったスカリオーネに、律儀な井上氏は、完成車両の写真を添えて、共作、ということにしていただけないだろうか、と打診。スカリオーネの快諾を得て、1900スプリントのデザインは、井上さんとスカリオーネの共作ということになっている。

1900スプリントの車体をつくったのは、4人のイタリア職人から技術を習得したプリンス三鷹分工場試作課の日本人職人たち。1900スプリントの木型は、イタリアから送られたCPRBの木型を活用している。

1900スプリントの復刻


ここまで駆け足で、プリンスとイタリア、の要約を書いてきた。このプリンスとイタリアには熱心な読者がいたのである。それが、今回の復刻に繋がっている。

プリンスとイタリアを上梓した際、古くから付き合いのあるミニカー専門店にプリンスとイタリア販促用につくったポスターを貼りだしてもらった。そのミニカー専門店は大阪に支店があり、大阪店にもポスターを貼ってもらった。



そのポスターを見て、ミニカー専門店経由でわたしにコンタクトしてきたのが、大阪の田中裕司氏。1900スプリントの復刻者である。

田中さんと折々で話すことができ、1900スプリント、無いならつくってしまいましょう。うそのようなまこと、事実は小説より奇なり、とはこのこと。

その奇跡のような成果を、今なら横浜で見ることができる。今回の復刻再生のために、丹念にボディーデザインのデータをつくり、監修をした人がいる。彼なくして今回の偉業は達成できなかっただろう。さまざまな奇跡が紡いだ1900スプリント。是非ご覧いただきたい。



この写真は当時の絵葉書。1900スプリントとスカイラインスポーツが写っている。横浜の展示会場には1900スプリントの他にスカイラインスポーツと、1900スプリントのベースになっているS50も並ぶ、ほぼ同時代のクルマたちのなかで、1900スプリントの異彩が際立っている。尚、展示されているスカイラインスポーツは、イタリアで2台だけつくられたプロトタイプ。フロントグリルのエンブレムのベース色は生産車の赤ではなく青。インテリアのメータまわりも生産車とは大きく異なっている。

蛇足ながら1900スプリントが生産化されなかったのは、完成時には世の趨勢になりつつあった6気筒を、積むことができなかったからである。


文・写真:板谷熊太郎 Words and Photography: Kumataro ITAYA


プリンス1900スプリント(再製作車両)特別展示

開催期間:2023年9月29日(金)~2023年10月24日(火)
場所:日産グローバル本社ギャラリー
https://www.nissan.co.jp/GALLERY/HQ/EVENT/2296

板谷熊太郎

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