フォードのCEOは生粋のカーガイだった! ジム・ファーリー氏にインタビュー

Drew Gibson/Nick Dungan

フォードのCEOは生粋のエンスージアストだ。GT40で出走したグッドウッド・リバイバルで、若い頃の紆余曲折や、車への熱い思いを聞いた。



これは意外だった。『Octane』のインタビューだと伝えると、どうやらジム・ファーリーが好きな自動車雑誌らしいことがわかった。無料購読を申し出るべきだろうかと考えているうちに、先回りされた。

「私は書店で購入するのが好きなんです。書店の助けになるし、あなた方にも商売を続けてほしいですから」

500ドルのマスタング


ファーリーは典型的な生まれながらの大富豪でない。そうした彼がフォードのグローバルCEOに上りつめたと聞けば、敏腕ビジネスマンの面が第一で、エンスージアストの面はおまけ程度だろうと想像するかもしれないが、ファーリーの場合は違う。カーガイの彼はグッドウッド・リバイバルにGT40で自ら出走しているほどなのである。

ファーリーのフォードGT40は、ブランドのトップの車にふさわしく、カーナンバー1を付ける。

よい証拠がある。ファーリーはクラシック・フォードを数多く所有するが、最も思い入れの強いノッチバックの1966年マスタングは、10代の頃に廃車置き場から救い出したものなのである。



ファーリーはこう振り返った。「私は家族とミシガン州に住んでいましたが、14歳のときにカリフォルニアのエンジン製造工場で仕事を得ました。そこで働いていたときに、エンジンブローを起こした古いマスタングがジャッキアップされた状態で廃車置き場にあるのを見て、500ドルで買い取ったんです。夏の間、その車内で寝泊まりして資金を貯め、エンジンをリビルドしました。そして帰りの飛行機のチケットを換金してガソリン代にし、運転して帰宅しました。無免許、無保険だったので、父親に大目玉を食らいましたよ。でも、あれがひとり立ちした瞬間でした」

フィル・ヒルの工房に職を得る


かつて祖父のエメット・トレーシーは、ヘンリー・フォードの元で働いていた。しかしジム・ファーリー自身は、自動車業界に進もうとは少しも考えなかった。ワシントンのジョージタウン大学で経済学と情報科学を学び、カリフォルニアの大学院に在学中は、夏休みに投資銀行のモルガン・スタンレーで働いた。給料は魅力的だったものの、仕事には魅力を感じられなかった。「私は顧客との会議中に居眠りをしてしまい、目をかけてくれていた人に『君は向いていない。この仕事が好きではないだろう』といわれました。私は『そのとおりです』と答えましたよ」

ファーリーは、仲のよかった祖父から、自動車会社に応募してはどうかと以前から勧められていたが、取り合わなかった。

「私は嫌だと答えました。自動車会社の売り物はミニバンだ。ミニバンの仕事なんてしたくないといってね。祖父は、『そんなに単純じゃないだろう。お前のことはよく分かっている。きっと幸せになれるよ』といっていました」

たしかに車は常にファーリーの身近にあった。シティバンクの幹部だった父親がアルゼンチンに赴任中に彼の地で生まれ、コネチカット州グリニッジで育った。そこには、北米でフェラーリの代理店を務めていたキネッティ・モーターズがあった。

「私は新聞配達を終えると、いつも自転車でそこへ行って、イタリア人メカニックとおしゃべりをしました。そうやってカービジネスを学んだんです」とファーリーは話す。

「父は車嫌いでしたが、私が車に関心があると友人に話したようです。その人が、カリフォルニアのブリッグス・カニングハムを紹介してくれました」

「ブリッグスに会いにいくと、彼はとても親切で、フィル・ヒルの整備工場に推薦状を書いてあげようかといってくれました。こうして私は下働きとして雇われ、1年目はトイレ掃除やゴミ捨てなどをしました」

「私は祖父からパッカードの運転を習っていました。フィルはパッカードが大好きで、私はその運搬を任されるようになりました。ビバリーヒルズのお客に納車したときのことを覚えています。その人から、メルセデスのガルウィングを工場へ持っていってくれと頼まれました。ところが入っていたガソリンの質が悪く、ろくに走れません。そこで、ガソリンを吸い出すためにトランクを開けようと鍵を差し込んだら、折れてしまったんです」

「フィルはカンカンでした。そもそも私は自分で運転してはいけなかったからです。彼はロープを持ってくると、それをトランクの下にある開閉用の小さなつまみに引っ掛け、私に反対側を持たせました。二人で、1、2、3で強く引っ張ると、トランクがポンッと開いたんです。そんな手を知っている人がいますか? フィルは驚くべき人物でしたよ。偉大なドライバーだったのはもちろんですが、いかに機械に強かったかはほとんど知られていません」

トヨタに勤める


「ある日、メカニックたちとおしゃべりしていたときに、私は『自動車会社に応募しようと思う』と話しました。彼らは、きっと幸せになれるよと賛成してくれました。まさに祖父が数年前にいっていたことです。私は、フォード、トヨタ、GM、クライスラーに応募して、すべてからオファーをもらいましたが、1990年にトヨタに就職しました」

なぜ、祖父が70年前にモデルTを造っていたフォードを選ばなかったのだろうか。その理由は、フォードで提案された仕事では、Fシリーズ・ピックアップトラックのひとつの側面にしか関われないからだ。対してトヨタなら、1車種の開発全体どころか、まったく新しいブランド、レクサスの立ち上げに関与できた。

しかし1990年には、まだ第二次世界大戦の生々しい記憶を持つ人が多かった。ファーリーは詳しく語ろうとしないが、その決断は家族から好意的に受け入れられなかったという。彼の父親は戦時中、海軍に所属していたからなおさらだ。

残念ながら、かわいがってくれた祖父は、ファーリーがフォードで出世する姿を見ることなく、1998年に亡くなった。

フォードに移籍


ファーリーはレクサスでゼネラルマネージャーにまで上りつめ、2007年に引き抜かれてデトロイトへ移り、フォードのマーケティング責任者となった。これは思いきった賭けだった。成長著しいレクサスに対し、その頃のフォードは不振にあえいでいたからだ。ファーリーを招聘した当時のフォードCEOが、ボーイングのCEOだった頃にレクサスを愛用していたのは偶然ではない。

倒産の瀬戸際だったフォードの立て直しに貢献したファーリーは、2015年にフォード・ヨーロッパの社長に抜擢された。これには役得があった。「私が世界一好きなコースはスパなんです。その上、オフィスから車で25分のところにはノルトシェライフェがありました。私は昼休みに出掛けていって、クレジットカードで支払って1周し、また運転して帰ったものです。『ランチはどうでした?』と聞かれたら『最高だったよ!』と答えてね。誰も思いもしなかったんですよ。そのうちに、『あれっ、あなたのRSのタイヤはずいぶん減りが早いですね』なんていわれました。“リンク”をマスターしたとはいえませんが、大勢の人が折り畳み椅子に座って見ているコーナーでは、最大限慎重に走ることを覚えましたよ」

ヒストリックカーレースに傾倒


ヨーロッパで働くうちに、ファーリーはヒストリックレースにのめり込んでいった。2021年のグッドウッド・リバイバルでは、「シャシーナンバー1109で、最後期に製造された」GT40でウィットサン・トロフィーに出走し、14位でフィニッシュ。ほかにも1966年コブラや1978年ローラT298でレースに参戦している。

GT40の中でも最後期に製造されたシャシーナンバー1109。

クラシックのロードカーも愛し、当然ながらマスタングを何台かとフォードGTを所有するが、ホットロッドの1932年型ハイボーイもある。

「自動車メーカーの重役で車好きなら、ホットロッドも持っていなくてはね。私は、(モータージャーナリストの)ケン・グロスからもらったフラットヘッド搭載の古い5ウィンドウ・クーペを所有していました。ただ、パワーに満足できなかったんです。そこで、ある人と' 32年型ハイボーイを造ることにしました。今は1955年だという想定で、当時最高のレーシングカー技術を駆使してね。スプリントカーのステアリングラック、トーションバー式サスペンション、ハリブランド製ホイールに、スチュワート・ワーナー製の計器…。クールな車になりました。最高に快適ではありませんけど!」

「私の最愛の1台は、ランチア・アウレリアGT・セリエIVです。ダークレッドで、ファクトリー製のスクープ付きボンネットに、ド・ディオン式サスペンション、ナルディ製シフト。元は『Road & Track』誌の故ジョン・ラムのもので、30年間憧れていた車です。妻は、新車で購入した1987年BMW 325iコンバーチブルを所有しています。何があっても売らないでしょうね。私も大好きです。素晴らしい車で、しょっちゅう使っていますよ。デザインが本当にいいし、家族全員を乗せるのにぴったりです」

フォード・グローバルCEO


欧州フォードの社長を2017年まで務めたファーリーは、デトロイトに戻って重要な役職をいくつか歴任し、ついに2020年10月1日にフォードのグローバルCEOに就任した。電動化の未来に向けてフォードの準備を整えることに力を注いでいる。2022年には、フルEVピックアップのF-150ライトニングがデビューする。マスタング・マッハEも発表されているが、これについては質問せずにはいられない。ファーリーはエンスージアストで、マスタングの大ファンでもある。10代で手に入れた1966年ノッチバックのほか、1965年シェルビーGT350や2012年BOSS 302も所有する。そんな彼が、電動SUVにマスタングの名を与えることに対して、いささかも良心の呵責を感じなかったのだろうか。

「いや、ずいぶん悩みましたよ。夜、横になったあとで、『人生を賭けてきたのに、いったい何をやっているんだ』と自問したものです。マスタングと称して販売台数が増えればそれでいいのか、とね。けれど、また別のときには、『変わらないものは何もない。きっとクールな車にできる』と思い直しました。何よりも重要な点は、電動マスタングによってガソリン版クーペを救えることです。電動マスタングがラインアップに加われば、排出量規制の下でも、通常のクーペをあと10年は残せます。ただ、ツイッターではひどく叩かれましたよ」

日常使いにおけるEVのメリットをファーリーは確信している。
「私も初めのうちは消極的でしたが、故障の許されない商用利用の場合は特に、こちらのほうが優れています。部品点数は40%少なく、製造にかかるマンアワーは80%、インテリアを広く取れて、四輪駆動にできる。問題は、EVが実用一点張りの見た目で登場したことです。まだ真に情熱的なマシンは出てきていません。けれど、これからですよ。ヘンリー・フォードが生きていたら、ここ50年間の車にはすっかり退屈していたでしょうけど、現在起きていることには目を疑うと思います」

ファーリーはツイッターで頻繁に発信しているので、大企業のトップとしていかに忙しい日々を送っているか、フォロワーなら分かるだろう。それだけに、趣味のプラスチックモデル作りに割く時間があることには驚かされる。その腕前は大変なものだ。

「読書で緊張をほぐす人もいますが、私の場合はプラスチックモデル作りです。1日20分ほどやっていて、友人への感謝の贈り物にしています。(モントレー・カーウィークの)ザ・クエイルのゴードン・マコールがシルバーのフォードGTを熱望していたので、モデルを作ってあげました。彼は、本物の車に見えるように拡大した写真を、今年のザ・クエイルのチケットに使っていましたよ。ほかにも、フォードGT40のモデルをケン・マイルズの遺族のひとりに贈りました。マンモデルのセットで、素晴らしいできなんです。私はコネを使って、モデル第1号を手に入れました。ライセンス部門に、中国に電話してくれと頼んでね…」

ヒストリックレースのほか、精巧なプラスチックモデル作りでリラックスすると話すファーリー。

ファーリーからは、車やカーシーンへの情熱が明らかに伝わってくる。業界内でこれほど高い地位に就く人物としては異例だ。スーツ姿の堅物に取り囲まれ、たったひとりの真のエンスージアストとして、孤独を感じたことはないだろうか。

「そう聞かれたのは初めてです」というと、彼は一瞬考え、こう答えた。「ありますよ、間違いなく。フォードを取り仕切っていると、これではだめだと私には分かるのに、ほかの者には理解されず、意見したせいで嫌われることもあります。私が初めて目にしたとき、マッハEのデザインはプリウスのようでした。『私の目の黒いうちは許さない』といいましたよ」

「とはいえ、私は非常に恵まれています。(フォード会長の)ビル・フォードはエンスージアストですから。それに、私は人が好きなんですよ。まあたしかに、たいていの場合は冷酷なビジネスマンとして振る舞っていますが、車のことなら理解できるし、(手でグッドウッドのパドックを指して)こういうことにも共感できる。私のレーシングカーを整備している男と私との間には、何の違いもありません」


編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.)  原文翻訳:木下 恵
Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.)  Translation:Megumi KINOSHITA
Words:Mark Dixon Photography:Drew Gibson/Nick Dungan

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.)

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