倉庫で40年間放置されたフェラーリ750モンツァが、往年の輝きを見事に取り戻す

Evan Klein



そこで登場するのが、第17代ポルタゴ侯爵ドン・アルフォンゾ・カベサ・デ・バッカである。スペインの王族とイギリスの超リッチな相続人の血を引く幸運な子孫である彼は、パイロットであり、馬術家であり、オリンピックのボブスレー選手であり、ポロの名選手でもあった。金持ちの道楽者の生活にふさわしく、彼はレースのキャリアを、小型で遅い車ではなく、フェラーリ250MMヴィニャーレ・スパイダーを駆り、1954年にブエノスアイレスで開催された1000kmエンデューロでスタートさせたのだ。しかし、なんと彼はマニュアルシフトの操作方法をきちんと教わっていなかったため、わずか3周したところで、チームは彼をリタイアさせた(それでもチームは2位だった)。この経験から、フォンは「次は世界で最も危険なロードレースに参戦しよう」と考え、1954年11月にフェラーリから750モンツァを買い取り、メキシコ南部のジャングルの果てにあるトゥクストラ・グティエレスへ向かうことになる。



ラ・カレラ・パナメリカーナは、1950年、パンアメリカン・ハイウェイの開通をアピールするために始まった公道ラリーなのだが、ポルタゴが到着した年は、レースは惨劇と化していた。1953年の大会では、ミッキー・トンプソンがフォードを走らせ、傍観者6人を含む9人の死者を出した。1900マイルのルートには、10マイルに及ぶ直線、標高1万フィート以上の厳しい上り坂、退屈した観衆が道路に投げ入れた干し草の俵が時折見受けられた。ポルタゴは、かろうじてトゥクストラにたどり着いたものの、フェラーリのオイルラインが切れてしまい、リタイアを余儀なくされた。1954年には、崖を乗り越えたり、木にぶつかったり、牛を避けようとしたり、車にひかれたりして7人が死亡し、メキシコ政府はラ・カレラ・パナメリカーナの終了を決定した。

その後ポルタゴはフェラーリを修理し、バハマのナッソー・スピードウィークに参戦して成功を収めたが、1954年末にこの車と決別し、さらに速いマシンに乗り換えることにした。しかし残念なことに、1957年のミッレミリアでのクラッシュで命を落とし、イタリアのオープンロードレースは幕を閉じた。

その頃、老齢化したこのフェラーリは、ペブルビーチレースをはじめ、1950年代後半までカリフォルニアのローカルイベントに参加し、レースという戦いの螺旋からは降りていた。そして、ランプレディ3.0リッターにトラブルが生じたものの、ファクトリーは旧式のレーシングカーへの部品を供給を断ったため、ついにエンジンはシボレーV8と交換され、1960年代までアメリカのクラブイベントに参戦していた。しかしそこでもさらに何度か車を動かせなくなってしまった。「多くの初期のフェラーリがいまだに存在する理由は、オーナーがパーツを手に入れられず、アメリカのV8を搭載してレースを続けたからだ」と、ペックは自分の車の決して潔白とは言えない過去にも動じない。

結局、フェラーリはサンフランシスコのベイエリアの倉庫にしまい込まれた。2016年にペックが友人からその話を聞き、オーナーを説得して手放させるまで40年間放置されていたのである。1990年代初頭にオリジナルのエンジンと再会した車は、テキサス州ゲインズビルの、「フェラーリ病院」として知られるボブ・スミス・コーチワークスに送られ、3年かけて丹念にレストアされ、エンジンはカリフォルニア州バークレーのパトリック・オティスのショップで蘇った。





ペック自身ではレンチを回し車をいじることはできない。「だからこそリサーチは欠かさずやっているんだ」と述べており、それは確かに徹底的なものだった。彼は、ボディに貼るのにぴったりのMobiloil Pegasusのロゴを何時間もかけて探した。そして、ポルタゴが所有していた短い期間に撮られた数枚の粗い写真を見て、アーティストに微調整とサイズ変更を依頼した。ステッカーも作ってもらったが、「デカールの方が正しいよ」と言われ、作り直した。また、ノーズのフライングホースがフェラーリのエンブレムの方を向いていることにも気がついた。「あのデカールだけで1万ドルはかかっているはずだ」と彼は嘆く。



ペックが初めて買ったフェラーリは308GTSで1979年のことだった。仕事と子供が常に優先で、次々と発表される新しいスポーツカーについては今ではほとんど覚えていないという。2015年、会社を売却して突然時間とお金に余裕ができた彼は、初めてのヴィンテージ車、ベビーブルーの1954年型フェラーリ500モンディアルを購入した。ペブルビーチ・コンクールに初めて参加した際、その500でクラス賞を受賞したことがきっかけで、ペブルビーチ・コンクールの虜になったそうだ。

「勝つためではなく、車をより良くするためのフィードバックを得るために行くんです」と彼は言う。ペブルの専門家たちから得たヒントには、例えばレーシングカーを完璧にペイントしないことというのがある。

「エンツォは部下に『この車を1週間で塗装してくれ』と言ったのですが、オレンジピール(塗装のブツブツ)やオーバースプレー、塗装の汚れなどがありました」とペックは話す。確かに、ペックの黒いモンツァをよく見ると、ガラスと言えるほどまでにはサンディングされておらず、スプレー仕上げの霧がかかっているのに気づくだろう。また、ゼッケンの丸印やフェンダーの文字もラ・カレラらしく、手描きで仕上げられている。当時は地元トゥクストラの看板屋に依頼して、スタート前に車を飾っていたそうだが、ペックの車にはその筆跡がはっきりと残っている。2020年のカヴァリーノ・クラシックで審査員を驚かせたこのマシンは、ペニンシュラ・クラシックの最新ベスト・オブ・ザ・ベストの受賞が決定している。



ペックはアルミボディの片開きドア(モンツァは右ハンドル車)を外し、赤い革張りの運転席を乗り越え、助手席に滑り込んだ。私も大きなハンドルを傷つけないように優雅に滑り込もうとしたが、簡単にはいかない。ペックは「ポルタゴは走って横切り、飛び乗って行くんだ、どうやったのかわからないよ」と嘆いていた。

間隔の狭いペダルを踏むときに、スパンアルミ製の大きなシフターボールに記された印から、4速ミッションは従来のHパターン、つまり1速が左上にあることがわかり、ほっとした。ツインプラグのエンジンは、再びスターターで始動されると、パーンと音を立てて反応する。クラッチの感触は悪いと聞いていたが、神経を尖らして踏むとわずかに感触があり、エンストすることなくフェラーリをペックの中庭から路上に送り出すことができた。



モンツァはゆっくり走るのを本当に嫌う。サイドドラフト48mmデュアルチョーク・ウェーバーは、6000rpmに向けて猛烈な勢いでエンジンの喉元に十分な空気とジュースを流し込む。ハーフスロットル以下で加速しようとすると、車はよろめき、バックスラッシュを起こす。ゲート式シフトレバーは、私がしっかりと操作し、ダブルデクラッチのタイミングを合わせると、シフトアップもシフトダウンも、風が頬を波打つ中、カチンと心地よい音を放つ。わずか数分の間だけだが、まるで1954年11月のテワンテペックのメインストリートのような雰囲気だった。

ステアリングはタイトで、シャシーは予想通りにロールし、細いタイヤがゴージャスなボラーニのワイヤーに絡みつきながらコーナーを駆け抜けていく。しかしすぐに、地元の警備員の小さなスポーツカーが黄色い点滅灯をつけて迫ってくる。オレンジカウンティの田舎町でフェラーリ750モンツァを走らせるのは、グッゲンハイムで闘牛をやるようなもので、誰かに気づかれるまでそう長くは持たないのだ。

ペックの趣味に対する謙虚な姿勢には好感を持たざるを得ない。おそらく近所で唯一である自作の自宅のシャッターから、古いフェラーリを世に送り出し、次の世代に鑑賞してもらうことに使命感を感じているのだろう。復活したラ・カレラ・パナメリカーナをこのフェラーリで走らせるという話もある。このフェラーリは、現代の姿になってもタフな車である。


翻訳:オクタン日本版編集部 Translation: Octane Japan
Words: Jay Harvey Photography: Evan Klein

オクタン日本版編集部

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