スキージャンプ台を駆けあがるアウディ・クワトロ│ドライバーをしていたのは?

Photography: Stefan Warter



1986年にあのテレビCMの話が舞い込んだ。「広告会社は、『アウディ・クワトロがいかに優秀であるかを証明するために、スキーのジャンプ台を駆け上がる』と説明した。ところが、アウディは無理だろうと答えたそうだ。私はあらゆるコンディションでドライブして四輪駆動に慣れていたし、クワトロがどれだけやれるか知っていたから、『やってみるべきだ』と訴えた。だが、そう言ったあとでジャンプ台に行ってエレベーターで昇り、外に出た瞬間に分かったよ。自分は世界一の大馬鹿者だってね。『これでもできると思うか』と聞かれたので、『できる』と答えたよ」そう言ってデムートは笑った。

クワトロのCMは、キャリアの中で最も有名な仕事となったが、デムート自身は特別誇りに思ってはいないようだ。「ラリードライバーが25 年にわたって森や氷の上や砂漠の中をあらん限りのスピードで駆け抜ける。それこそが危険で恐ろしい英雄的な行為だよ。ところが、誰もが覚えているのはあのジャンプ台なんだ」



最近、"ヨーロッパのテレビ史上最もクレイジーな瞬間100"という投票で、クワトロのCMが1位に選ばれた。「29 年後に1 位になるとはね。その感想を聞きたいとテレビ局から電話があったよ」とデムートは笑う。

撮影はフィンランドのピトカヴォリで行われた。首都ヘルシンキの北300kmに位置し、雪に覆われた針葉樹林の中に、巨大なジャンプ台がそびえ立っている。使われたのは、ほぼ標準仕様の赤いアウディ100 CSクワトロだ。この車で、最大斜度37.5度、実に80%もの勾配を、なんと13回も駆け上がったのである。ヘリからの空撮も含め、あらゆる角度から撮影するためだ。

デムートは顔をしかめてこう話した。「3 回か4 回やったところで、もうたくさんだと思ったよ。難しかったのはドライビングじゃない。車を止めることだった。ブレーキだけでは静止していられなかったからだ」

そこで、エンジニアが補助装置を取りつけた。長いロープを雪の中に隠し、滑り落ちそうになるとロープがピンと張って車を支えるという仕組みだ。ロープは、撮影後に車をスタート地点に戻す際にも役立った。また、車体下部には、ハンドブレーキで作動するフォーク状の停止フックも取り付けられた。これが氷に食い込んで、地上47mのジャンプ台頂上で車を静止させる。ただし、あくまでも順調に事が運べばの話だ。

「本当に寒かったから、毎回すべてがきちんと作動
する保証はなかった。ただ、それだけ温度が低いとスロープはカチカチに凍結する。おかげでスパイクタイヤのトラクションは大きかった。そうでなければ登り始めることもできなかっただろう」

最悪の場合に備え、スロープが途切れる手前にはネットも張られていた。航空母艦で、着艦する飛行機を制止するのに使うようなネットだ。「ありがたいことに、その出番はなかったよ」とデムートは言うが、危険な場面もあったことだろう。もちろん、フィンランドへ行く前にはテストも行われた。

「オーストリアへ行き、さまざまなスロープで最高
33 度まで試した。おかげで自信を持ってピトカヴォリに乗り込めたよ。広告の担当者は、あの場所を大いに気に入った。なにしろ、平坦な風景の中に地上20mの巨大な建造物がそびえ立っているんだからね」20mというのは、スロープの最下部の高さだ。残念なことに、ピトカヴォリは1994年でジャンプ台としての役目を終えた。

アウディ100でどのようにしてスロープを駆け上がったのだろうか。
「マニュアルギアボックスだから、自分の感覚を頼りに、トルクをかけすぎず、ホイールスピンしすぎないようにしなければならなかった。うまくやらないと、車はそこで止まってしまう。19年後にオートマティックで同じことをやったら、はるかに楽だったよ」

「見えるのは空だけだ。ただ、両側の柵に停止位置を示す目印はあった。3日か4日かけて撮影し、ようやくカメラマンが満足したな。零下20 度だったけれど、暖を取る場所もなかった。実にクレイジーだったよ」

だが、二度とやりたくないと思うほどではなかったらしい。アウディは2005年にクワトロ発売25周年を記念して再びピトカヴォリを訪れ、あのCMの再現に挑んだ。このときはグレーのA6 4.2クワトロを使用。新しい安全システムとして、車体下のソリに鋼鉄のケーブルをつなぎ、停止用フックも2個取り付けた。最大の違いがATだったことで、これでデムートの仕事はやりやすくなった。しかし、撮影クルーは使われなくなっていたジャンプ台を、走行できる状態に整えなければならないという苦労を背負った。



デムートはこのときも準備作業から車のセッティングまで、すべてを自分で行った。しかし、カメラの前で走行したのは別人だ。「 ジャンプ台はホテルから12kmのところにあった。ある夜、私はホテルまで走って帰ることにしたんだ。ところが、滑って手を骨折してしまった。その手ではフォークを作動できず、安全ではなかったんだ」声に悔しさがにじんだ。代役を務めたのは、エンジニアのウーヴェ・ブレックだ。

あれほどのCMも、デムートにとってはカメラの前でドライビングするキャリアの始まりにすぎなかった。
「ドイツにアクション・コンセプトという制作会社がある。そのトップが私のラリースクールの教習を受けにきて、映画の仕事をしたくはないかと聞かれたんだよ。ラリードライバーの能力が物をいう仕事だ。ドリフトするのに何回トライが必要かとカメラマンは聞く。けれど、ラリーでは成功するチャンスは一度しかない。1周ごとに改善していけばいいレースとは違う。カメラマンは『もう一度やってくれ』と何度も言うが、実際に使われるのはいつも最初のテイクだった。あるとき、俳優のデニス・ホッパーが私に歩み寄ってきて、『君があの有名なスタントドライバーか』と話しかけてきたんだ。あのイージーライダーその人がね」デムートの顔に笑みが浮かぶ。

「ラリーは陸上の十種競技に似ていると思う。あら
ゆる状況下でドライビングするからね。昼も夜も、夏も冬もだ。モンテカルロでは、ターマックをスリックタイヤで走ったかと思えば、次にはスノーやアイスも細いスパイクタイヤで走る。ラリードライバーはレーシングドライバーより鋭い直感を持っていると私は思うよ」だからこそ、ジャンプ台を駆け上がるような離れ業もできたのだ。

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA Words: Glen Waddington

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