クライスラーとの知られざる関係から生まれた名車|フィアット8Vギア・スーパーソニック

1953年フィアット8Vギア・スーパーソニック(Photography:Dirk de Jager)



ギアとクライスラーの蜜月
フィアットをクライスラーから購入するとはいかにも奇妙な話に思えるだろう(フィアットとクライスラーが合併するのは、それから60年後の2014年8月だ)。

両者を結び付けたのはギアだった。トリノの小さなカロッツェリアにすぎなかったギアが世界的な名声を得ることになったのは、戦後、洗練されたデザインを必要としていたクライスラーがギアと密接な関係を築いたからだ。一方フィアットも、戦後の復興を果たすため、自社の技術者に最新の機械加工や組立技術を指導してほしいとクライスラーに依頼していた。

ギアのマリオ・ボアノは、クライスラーとの折衝役として、スポーツカーメーカーのSIATA(シアタ)で販売部長をしていた30歳のルイジ・セグレを引き抜いた。セグレは戦中にイタリアのレジスタンスとアメリカ軍との連絡役を務めていたので、まさに適任だった。ギアの将来がヨーロッパ外への顧客拡大にかかっていると考えたセグレは、自らアメリカへ渡り、クライスラーの輸出販売部門の責任者であるC.B.トーマスと親しくなった。こうしてクライスラーからプリマスのシャシーがトリノに送られることとなり、セグレとボアノは4ドア6ライトのベルリーナボディをデザインして、ギアの実力を証明してみせた。

ギアの職人技と約1万ドルという控えめなコストに納得したクライスラーは、10台のコンセプトカーをセグレに発注した(セグレは1953年にギアの社主になっていた)。とはいえ、10台のうち大半は、クライスラーのヴァージル・M・エクスナー率いるアドバンスト・スタイリング・グループがデザインを担当した。一方ギアでは、1954年にチーフデザイナーのジョヴァンニ・サヴォヌッツィが、デソートのシャシーに架装したアドベンチュアラーIIクーペを生み出した。

アドベンチュアラーIIは、非常に長く低いボディを持ち、サヴォヌッツィが手がけた流線型の"スーパーソニカ"シリーズの中でも最大のものだった。スーパーソニカは、ジェット機に触発されて誕生したシリーズで、ジェットエンジンの吸気口を思わせる前後のライトが特徴だ。その端緒となったのがあるワンオフだった。シャシーを製作したのはヴィルジリオ・コンレロで、鋼管フレームにアルファロメオ1900Cのエンジンを搭載し、フィアット1400のフロントアクスルとランチア・アウレリアのトランスアクスルを組み合わせていた。この車でスイスのロバート・フェルマンとG.ヴュイユが1953年ミッレミリアに出走したが、レース前半でクラッシュしてリタイアに終わり、車はリビルドされてロードスターに生まれ変わった。

コンレロのスーパーソニカは短命に終わったが、その大胆なスタイリングは大変な注目を集めたので、同じデザインで限定生産することが決まった。シャシーとして選ばれたのが当時最新のフィアット8V(イタリア語でオット・ヴ)だ。8Vに搭載されたOHVのV型8気筒エンジンは、フィアットのテクニカルディレクターであるダンテ・ジアコーザが6座の高級ベルリーナに搭載するために設計したものだった(増税によるイタリア市場の縮小でこのモデルの生産は見送られた)。サスペンションはフィアット初の完全な独立式で、シャシーの製造はシアタが請け負った。8Vの生産台数はわずか114台である。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO(Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:David Burgess-Wise Photography:Dirk de Jager

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