連載:アナログ時代のクルマたち|Vol.15 リスター・ジャガー コスティン

T. Etoh

ブライアン・リスターがリスター・モーターカンパニーを設立したのは1954年のことである。彼自身、コンストラクターであると同時にレーシングドライバーでもあり、戦後まもなく故郷のケンブリッジにCambridge 50 Car Clubという自動車クラブの共同創設者となる。そしてここで知り合ったのが後に彼が作る最初のレーシングカーをドライブして見事に優勝を遂げるアーチー・スコットブラウンであった。リスターが最初に作ったマシンは、クーパーにヒントを得たコンベンショナルなモデルで、MGのエンジンをチューブラーラダーシャシーに載せたものであった。

1957年になるとジャガーDタイプを改造して、より空力的に優れたアルミボディのマシンを開発。これもアーチー・スコットブラウンのドライブで優勝を遂げる。ここにリスター・ジャガーが誕生した。驚くべきことにこのマシンは1957年に14のレースに出場し、このうち12のレースで優勝するという快挙を成し遂げ、その注目度は急上昇したのである。この車はさらに開発が進み、アメリカの市場をも見据えて1958年シーズン用はジャガーエンジンのみならず、シボレーのV8エンジンをも搭載可能にしていた。こうしてブライアン・リスターは第一級のレーシングカー・コンストラクターにのし上がったのである。

BHL135 (Image: BELL SPORTS AND CLASSIC)

しかし、この年のスパフランコルシャンのレースにおいて、彼の最高の友人でもあったアーチー・スコットブラウンがリスター・ジャガーをドライブし、事故により帰らぬ人となったことにリスター自身、大きな衝撃を受けてしまう。そして翌1959年、アーチー・スコットブラウンに代わってリスター・ジャガーをドライブしたのはIvor Bueb(イヴォール・ブエブ)である。フォーミュラでは成功を収めなかった彼だが、スポーツカーレースでは、1955年のル・マン24時間でジャガーDタイプをドライブして見事優勝している。相方はマイク・ホーソーン。メルセデスが観客席に飛び込んだ史上最悪の事故の発端を作ったと言われるマシンであった。そのブエブもこの年にリスター以外のマシンをドライブ中に帰らぬ人となる。さらにF1ドライバーだったジャン・ベーラの死により、ブライアン・リスターはレースへの情熱を失いレーシングフィールドからの撤退を決断した。

というわけで、リスター・ジャガーがブライアン・リスターの元でワークス活動したのは僅か3年と短い。しかし濃密な3年間で12台と言われる Knobblyの愛称を持つリスター・ジャガーと、17台と言われるフランク・コスティンがデザインした、より空力性能に優れたマシンを作り上げた。そして前者の“Knobbly”リスター・ジャガーはコンティニュエーションモデルが2014年から作られるほどの名マシンとして今も多くのクラシックイベントに顔を出すモデルである。

ここに登場するリスター・ジャガー コスティンは、1959年シーズンのためにフランク・コスティンがデザインしたエアロボディを纏ったマシンである。余談ながら、フランク・コスティンは独特な空力スタイルのモデルを作り出すエンジニアとして知られ、リスターやロータスにそのデザインを提供した。元々デ・ハヴィランド社の航空エンジニアであり、デザイナーというよりも軽量モノコックシャシーなどの設計で有名で、その名をジム・マーシュと共同で立ち上げたマーコス(マーシュとコスティンの名を繋げた)に残している。一方、弟のマイク・コスティンは、こちらもキース・ダックワースと共にコスワース(コスティン・ダックワースの名を繋げた)を立ち上げ、その名を社名に残している。

コスティンのデザインしたリスター・ジャガーは非常に流麗でスムーズなボディワークが特徴となっており、車体を極めて低く作った結果、タイヤハウスがまるで瘤のように突き出したデザインから“Knobbly”の仇名が付けられたモデルとは大きく異なるが、その中身は基本的には同一である。

ほぼすべてのリスター・ジャガーにはBHLで始まるシャシーナンバーがつけられている。BHLはオーナーでもあったブライアン・ホーレス・リスターの頭文字であるが、いくつかの例外もある。例えば”Knobbly ”の1号車にはEE101のナンバーが与えられていた。これは車がエキューリ・エコスのために作られたものだったからだそうだ。もっとも本来はBHL101である。

ここに紹介するコスティンの1号車はBHL2-59というシャシーナンバーを持ち、1959年のイースター・マンデーにグッドウッドで開催されたサセックス・トロフィーレースに優勝している。ドライバーはイヴォール・ブエブである。6月のル・マンも同じくブエブ/ハルフォードのドライブで出場しているが、この時は9時間目でリタイアしている。その後1960年にアメリカに輸出され、1983年に再度イギリスに戻った後、ピーター・カウスがこれを購入してロッソビアンコ博物館に展示した。濃いグリーンとイエローのストライプを持つマシンが BHL2-59である。また、白地にブルーのスタライプが入るカニンガムカラーのマシンはシャシーナンバーBHL123でコステインボディの2号車である。サイドビューを見るとこの車がマルコム・セイヤーのデザインしたEタイプジャガーに大きな影響を与えたことがよくわかる。

(image: Creative Commons)


文:中村孝仁 写真:T. Etoh

文:中村孝仁 写真:T. Etoh

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