連載:アナログ時代のクルマたち|Vol.11 アストンマーティンDBR1

T. Etoh

今でこそアストンマーティンはF1でも活躍しレーシングカーを走らせているが、このメーカーは不遇の時代が長く、会社を所有するオーナーも幾度となく変わっている。一番長く安定した時期は第2次世界大戦後の1947年から1972年までの25年間。イギリスの実業家デイヴィッド・ブラウンが会社を購入し、DBの頭文字をつけたモデルを投入した時であろう。



元々創業当時にアストンヒルというところで行われたレースに優勝したことで、アストンマーティンの社名が誕生したのだから、このブランドとレースは切っても切れない関係にあったのだが、度重なるオーナーの変遷で戦前の一時期はレースの世界から身を引いていた時もある。しかし、デイヴィッド・ブラウンの時代となって再びレースに復帰。1949年にはル・マン24時間レースへの出場を果たしたのである。もっともこの時は市販車ベースモデルであったため総合優勝を狙えたわけではなかったが、それでも1台が総合7位に入っている。

50年代半ばまでワールドスポーツカーチャンピオンシップのレギュレーションではマシンは公道走行が可能でなくてはならないと定められていた。そんなわけだから1951年のル・マンを勝ったジャガーCタイプなどは、本社のあるコヴェントリーから自走でル・マンを目指し、そして勝利している。この規制が緩和されたことでアストンマーティンはレース専用の本格的レーシングマシンの制作に着手した。それがRの文字の入ったDBR1であった。



それにしてもこの時代のアストンマーティンには優秀な人材が多くいた。その一人が、デイヴィッド・ブラウンがラゴンダを買収してアストンマーティンに帰属させた際、当時ラゴンダのエンジニアとして活躍していたWOベントレーである。また、アウトウニオン・タイプDのエンジン開発に携わったエーベラン・フォン・エバーホルスト、さらにアラードから移って来たテッド・カッティングなど才能に溢れた技術者が多く在籍し、DBR1に関して言えばエンジンとトランスミッションを除いたほぼすべてのデザインと設計をテッド・カッティングが行っている。

DBR1について語る時、やはり絶頂期と思われるのは1959年のル・マン24時間優勝であろう。しかし、この車のル・マン優勝は有り余るパワーによってもたらされたものではなく、軽量で空力性能に優れたボディと抜群の運動性能によってもたらされたものだったのだ。59年の優勝クルーはキャロル・シェルビー/ロイ・サルバドーリのペア。そして2位に入ったのも同じくDBR1で、モーリス・トランティニアン/ポール・フレール組であった。DBR1を実際にル・マンで走らせた二人のドライバー、ロイ・サルバドーリとポール・フレールは口を揃えてDBR1のハンドリングを絶賛している。





また、DBR1は開発当初2.5リッターの直6エンジンを搭載していた。このRB6.250と呼ばれるエンジンは、アストンマーティン直6エンジンの生みの親ともいえるタデック・マレックの設計によるもので、当初はレギュレーション上排気量が2493ccのものを搭載していたが、1958年にRB6.300となって排気量は2922ccに拡大した。そして当初のこのエンジンは4つのメインベアリングを持つエンジンとして誕生したが、当時アストンマーティンのレースディレクターを務めていたジョン・ワイヤーはテッド・カッティングに対し、より耐久性の高い7ベアリングにアップデートすることを要求した。このためRB6.300には2種のエンジンが存在し、優勝したキャロル・シェルビー/ロイ・サルバドーリ組のエンジンは7ベアリング仕様。一方フェラーリと序盤の争いを展開し6時間目でリタイアしたスターリング・モス/ジャック・フェアマンのマシンは4ベアリングのエンジンを搭載していた。





DBR1として生を受けた車は全部で5台である。このうちワークスカーとしてレースに出場したのは4台。シャシーナンバー1は1956年に完成し、その年のル・マンに出場した。シャシーナンバー2は57年に完成し、その年ニュルブルクリンクで勝利を収めたほか、59年のル・マンに勝ったマシンもこのシャシーナンバー2であった。シャシーナンバー3は1958年に完成。その年のニュルブルクリンク1000kmにスターリング・モス/ジャック・ブラバムのコンビで優勝している。

そしてシャシーナンバー4は元来DBR3として誕生したモデルで、当初は3.7リットルのDB4用エンジンを搭載しフロントサスペンションもウィッシュボーンタイプとされるなど、その仕様は異なっていたのだが、後にDBR1仕様にコンバートされ新たにDBR1/4のシャシーナンバーが与えられたモデルである。



最後のDBR1/5はプライベーターのピーター・ホワイトヘッドに売却されたもので、ワークス活動はされていない。そしてこのDBR1/5こそ、ロッソビアンコ博物館に収蔵されていた1959年に完成された最後のDBR1なのである。


文:中村孝仁 写真:T. Etoh

文:中村孝仁 写真:T. Etoh

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