プリンス自動車のインサイドストーリ― 第3回│プリンスとミケロッティ

文:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA) 資料:井上一穂氏(Kazuho INOUE)



ここで井上猛さんに大命が下る。井上さんのイタリア留学を強くバックアップしたのが中川さんだった。1959年(昭和34年)11月から1961年(昭和36年)7月までの2年弱に及ぶイタリア留学中、中川さんと井上さんとの間に交わされた書簡は200通以上。今日に較べて通信の便の悪い当時にあって、ふたりは実に緊密な連携を保っている。

イタリアに赴く井上さんに託された任務のひとつは、プリンスがイタリアのカロッツェリアにデザインの委託をする場合、どこがふさわしいかを探ること。

プリンスがイタリアにデザインを発注してスポーツカーをつくることを決めたのは1960年(昭和35年)3月の役員会議。そのことはすぐに中川さんからミラノにいた井上さんに伝えられている。役員会議の決定事項を伝える3月18日付の書簡には、ただちにデザイン委託先の選考に入れ、との指示がある。この指示に対し井上さんがミケロッティを推挙するのが3月29日。重要な決定に2週間と要していない。これこそ、井上さんがイタリア到着後から着々とこの日のために準備してきたことの証である。


イタリアに到着した11月から3月まで5ヶ月間の井上さんの歩みをみてみよう。

井上さんは1959年(昭和34年)11月1日の羽田発SAS(スカンジナビア航空)でイタリアへ向けて出発するのだが、この時点では肝心の研修先が決まっていない。とりあえず現地入りしてその場で研修先を探すことにした。日本から研修先にあたりをつけるのは容易ではなく、隔靴掻痒と感じていたのであろう。

1959年(昭和34年)時点で欧州は遠く、井上さんがミラノに到着するのは11月5日のことである。翌11月6日には早速ミラノ工科大学へジオ・ポンティ教授を訪ねている。そう、井上さんはプリンスに転職するまで、長く高島屋の家具部に勤務した方である。今日でも家具や食器に名を残す、ジオ・ポンティ教授を尋ねるのはごく自然の成り行きと思える。

この時ジオ・ポンティ教授から紹介されたのは、ロドルフォ・ボネット氏で、真の研修先が決まるまでしばらくの間、ロドルフォ・ボネット氏のデザイン事務所で研修することになった。



ボネット氏のデザイン事務所で研修する傍ら、井上さんは精力的に自らの受け入れ先を模索し、併行してプリンスの業務委託先の検討も進めている。いわゆるサウンディングである。また、もし研修を受け入れてくれたらプリンスからの業務委託先としても優先的に検討する、といった条件も提示している。JETROの渡航枠で留学している事実にかんがみ、プリンスとしても、なんとか井上さんの研修成果がカタチとして残せるよう配慮しているのである。

井上さんの研修と業務委託を組み合わせた打診に対して、誇り高いイタリアのカロッツェリアはどこも冷やかだった。素人同様の研修生を受け入れ、さらにその研修生とのコラボレーションで何らかの作品をつくることは、プロ意識の高いカロッツェリアにとって考えられないことだったのであろう。

研修+業務委託の打診を行なったことにより、かえってピニンファリーナなど、特に歴史ある誇り高いカロッツェリアとの間には壁をつくってしまったのかもしれない。

ここで重要なのは、中川さんからスポーツカーデザインの業務委託先検討を正式に要請する書簡が届いた3月18日時点で、井上さんはまだ研修先を探している最中だったことである。自分の研修先すら決定していない時点で、速やかに業務委託先を決めている。ふたつの作業を同時並行して行なっていたことの証左である。

尚、3月18日の時点でギアだけは研修受け入れ依頼に対する正式な回答を保留していた。そのギアから研修受け入れ不可との正式回答が舞い込むのは、スカイラインスポーツのデザイン委託先をミケロッティに内定した直後の3月31日のことだった。

文:板谷熊太郎(Kumataro ITAYA) 資料:井上一穂氏(Kazuho INOUE)

無料メールマガジン登録   人気の記事や編集部おすすめ記事を配信         
登録することで、会員規約に同意したものとみなされます。

RECOMMENDEDおすすめの記事


RELATED関連する記事

RANKING人気の記事