時代に先駆けたフェラーリ│美しい外観に潜んだ斬新さ

Photography: Mathieu Heurtault

ミドシップV12エンジン・レイアウトを採用したセンターステアリング3座席フェラーリとして誕生した365P。1969年からキネッティ家によって守られてきた。

そのボディの下には、その外観からはまったく予想できない、斬新という言葉では説明しきれないものが潜んでいる。もしこの365Pが市販されていたら、スーパーカーの歴史はかなり違っていたのではなかろうか。

フェラーリ365Pトレ・ポスティはプランというよりは、ビジョンであった。1965年のトリノサロンで、ランボルギーニがミウラのシャシーのみを展示したとき、世界のメディアは興味を示したものの、未完であったがゆえに、それだけに終わった。だが、その翌年のジュネーヴ・ショーでは、まったく違う展開となった。ボディを架装した完成車がP400ミウラとして発表されると、ジャーナリストたちはこぞってこの美しいロードカーについての記事を書いた。



当時、ミドシップを採用したロードカーは希
有であった。ATS 2500GTとマトラ・ジェットが市販されていたが、数は微々たるものだった。V型12気筒の大排気量ユニットをミドシップに搭載したミウラは、初のそして真のスーパーカーとして大旋風を巻き起こした。このランボルギーニの成功は、フェラーリですら無視することはできなかった。

フェラーリがミウラに対抗する車としてフロントエンジンの365GTB/4デイトナを発表したとき、世間ではエンツォがミドシップ式エンジンに興味がないからといわれたが、真相はそうではなかった。フェルッチオ・ランボルギーニですら、当初、ミウラの販売予測数をたった50台と見積もっていたにすぎなかった。フェラーリが危険を冒してリスクを負い、時代の流れに流されて"ミドシップパーティー"に参加する理由は何もなかった。エンツォは時期尚早と考えたのだ。だが、フェラーリ(そしてピニンファリーナ)が、まったくミドエンジンのロードカーを無視していたわけではなく、ミウラへの回答が365Pであったといわれる。

本稿の主人公であるフェラーリ365Pグイダチェントラーレ・トレ・ポスティ(センターステアリング3座席の意)はプロジェクトのひとつだが、市販を目的として製作されたわけではなく、組立てられたのは僅か2台にすぎない。この写真の365Pは、その初号機である。

こうしたプロトタイプではめずらしいことではないが、365Pが生まれた由来にも幾分曖昧なところがある。フェラーリではなく、ピニンファリーナのアイディアによって製作されたことが分かっている。セルジオ・ピニンファリーナ自身が提案し、個人的なプロジェクトとして彼自身がデザインしたといわれている。過程や理由は未だに不明のままであるが、細かい設計はアルド・プロヴァローネの手によって行われたことは間違いない。彼が手掛けたディーノ・ベルリネッタ・スペチアーレ・コンセプトカー(1965年パリで公開)のデザインを色濃く受け継いでいるからだ。



そのベースとなったのは、"ティーポ557A"と呼ばれるスチール製チューブラーフレームシャシーだった。サスペンションは前・後輪とも独立式で、4輪にディスクブレーキを配している。エンジンは各バンクに1本ずつのカムシャフトを備えた軽合金製V型12気筒4.4ℓユニットで、発表時の公称出力は380ps/7300rpmであった。トランスアクスルはZF製の5段型だ。

365Pの最大の特徴は中央に運転席を配した横並びの3座席レイアウトだ。製作者によれば、3座席とした理由は車をより実用的にすることであったという。「運転に最も適したポジションだ。完璧にバランスのとれた視界を提供し、あらゆる状況下で車両を最も的確にコントロールすることができる」とピニンファリーナは語っている。

365Pの組立ては、後にプロヴァローネのデザインを改良してディーノに取り入れたレオナルド・フィオラヴァンティの監督下で進められ、彼はまた、このプロトタイプのシェイクダウンの責任者も務めた。

1966年のパリ・サロンでは、ピニンファリーナの大きなスタンドには365Pのみが展示され、その一風変わったシートレイアウトは人々に大きな衝撃を与えた。



365Pが再び姿を見せたのは、アールズコートで開催されたロンドン・モータショーだった。一部の情報によると、パリとロンドンで展示された365Pはモックアップで、これをベースにして完成車が組み立てられ、ル・マンで3度の優勝を飾り、アメリカでフェラーリ・ディーラーとレーシングチーム(NART)を営むルイジ・キネッティが購入した。これがここに登場するホワイトにブルーのストライプを入れた車(シャシーナンバー:8971)だ。

もう1台、ほぼ同一の車が1966年のトリノ・ショーに展示されたが、これは当時のフィアット社社長であったジャンニ・アニエッリのために製作された車( シャシーナンバー:8815)であった。これは250LMをベースに製作されたと考えられているが、初号機の8971との関連性は不明だ。アニエッリの車はボディがシルバーで塗装され、ブルーのストライプが入れられていた(後にブラックへ、そしてレッドに再塗装された)。アニエッリは左足が不自由であったため、クラッチペダルにアシスト装置が取り付けられ、セミAT仕様になっている。

完成後、アニエッリが高速走行時の安定性に欠けると指摘し、ピニンファリーナによってリアエンドに大きなアルミ製スポイラーが取り付けられた。この車は1993年8月にブラックホーク・コレクションを通じてアジアのコレクターに販売され、現在、東南アジアのどこかにあると考えられている。

キネッティが購入した365P(8971)は1967年にアメリカで待つキネッティの元に送られ、その年の輸入車ショーに展示された。その後、白い365Pは2度、顧客に販売されたが1969年にキネッティが買い戻し、それ以来、ずっとキネッティ家が所有し続けている。総走行距離は8000マイル(1万2800km)にすぎず、フィラデルフィアにあるシメオネ財団自動車博物館( Simeone Foundation Automotive Museum)に展示されていた。



オークションに供することを決めたときキネッティJr.は、以下のように語っている。「この365Pは製作されてから今まで、ほとんどの期間保管されていたのです。そのためサービスや修理が必要なことはほとんどなく、極めてオリジナルの状態に近いと言えるでしょう。私の父はこの車が私たちの手元に戻ってきたとき、本当に喜んでいました。父が大好きな車でしたから。私もこの車が大好きです。でも、臍の緒を切る時がきたのです。私自身は50マイルほどしか走行していません。2000年にイギリスのグッドウッド・リバイバルに送り、ペースカーとして200マイル走行したくらいです。私は常にたくさんのプロジェクトを抱えており、実際に使用する時間もありません。ですからどなたかにこのフェラーリを楽しんでもらいたいのです」

この365Pが世間の注目を浴びたのは、束の間だったかもしれないが、数カ月後に生産されたディーノ206GT、その後に続くフェラーリにその影響を残した。フェラーリがもしこの車を量産していたらと考えてみてほしい。私たちはこれほどミウラに心を奪われていただろうか。そしてV12エンジンをミドシップにマウントした3座席車として、365Pより30年遅れて登場したマクラーレンF1の歴史的ポジションはどうなっていたのだろうかと。フェラーリが跳ね馬のエンブレムを冠したミドエンジン・ロードカーである365GT4 BBを量産したのは1973年のことである。BBは素晴らしい車ではあるが、常に後れを取り戻そうとする存在であった。
 
365Pは当時非常に斬新であっただけでなく、
時代に先駆けた車であり、それ故に人々を魅了する。


1967年 フェラーリ365P
エンジン:4390cc、60度V型12気筒、SOHC、
ウェバーツインチョークキャブレター×3基
最高出力:380bhp/7800rpm
変速機:トランスアクスル式、前進5段MT+後退、後輪駆動
ステアリング:ラック・ピニオン
サスペンション(フロント/リア):不等長ダブルウィッシュ
ボーン、 コイルスプリング、
テレスコピックダンパー、 アンチロールバー
ブレーキ:4輪ディスク
車重:1020kg 性能:約300km/h(公称)

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation: Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:渡辺 千香子(CK Transcreations Ltd.) Translation:Chikako WATANABE (CK Transcreations Ltd.) Words:Richard Heseltine

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