歴史的なグランプリカー"メルセデス・ベンツW196R"が高額で落札された理由

メルセデス・ベンツW196R



W196Rの誕生

W196Rとはどんなマシンだったのだろうか。それを述べる前に、W196Rが誕生する以前のダイムラー・ベンツの姿とモータースポーツ活動について触れておきたい。

戦後の疲弊したドイツの経済状況のなかで苦しんでいたダイムラー・ベンツに未来への光明が見えたのは、1948〜49年ころからであった。メルセデス・ベンツの製造も序々に上向いていったことから、ブランドの復活をアピールする方法のひとつとして、モータースポーツへの復帰が検討課題に挙がった。

1949年4月に発売した300シリーズに搭載された新開発の直列6気筒エンジンは、プロトタイプスポーツカーにも転用され、1952年にはレース参戦が始まった。専用の鋼管スペースフレームシャシーに"ガルウィング"と呼ばれる特異なデザインのドアを持つ300SLクーペ(W194)と、そのスパイダー仕様が造られ、ミッレミリア(2位と4位)、ベルン(1〜3位)、ル・マン(1位と2位)、ニュルブルクリング(1から4位)、そしてメキシコのカレラ・パナメリカーナでは1位と2位を収めるという、破竹の勢いで勝ち進んだ。現代では考えられないことだが、この頃、北米でのメルセデス・ベンツの知名度は極めて低く、走行距離が5000kmにもおよぶ過酷なカレラ・パナメリカーナでの圧勝は有効な宣伝効果があったといわれている。

こうした連戦連勝をもたらしたのが、戦前からの長い経験を持つノイバウアー監督が敷いた周到なサポート体制であった。メキシコへの遠征の際には、W194クーペ2台とW194スパイダー2台の出場車に加え、部品などの輸送に当たる3.5トン積みトラック2台、そして約40名のスタッフを派遣した。チームの行動表も芸術的だったと評されている。行動表には国境や税関などの関係する担当官の名前がすべて記載され、必要と思われる電話番号は完璧に調べ上げてあった。さらに、ホテルや食事はすべて予約され、観光地も細かく記され、スタッフの移動、工程の目安の時間などが記されていたという。

1953年、ダイムラー・ベンツは翌シーズンからのF1参戦に向け、F1レギュレーションに沿った2.5ℓマシン、W196の開発に注力していた。エンジンは直列8気筒の自然吸気ユニットで、燃料噴射装置を備え、バルブ系には高回転時にバルブとピストンヘッドの接触を防ぐデスモドロミック強制開閉機構を採用。長いクランクシャフトはローラーベアリングで支持され、パワーをクランクシャフト中央から取り出す、いわゆるセンターパワーテイクオフ・システムを用いた。

エンジンは重心高を低めるべく鋼管スペースフレームに大きく傾けて搭載し、ブレーキは4輪ドラム式のインボード配置、リアサスペンションはロールセンターを低めるローピボット式スウィングアクスルの独立式とした。

開発が遅れたことでアルゼンチンとベルギーの2戦には間に合わなかった。ノイバウアーは1951年のワールドチャンピオンであるファンジオに対して1954年度の契約を提示した際、マシンの製作遅れに関して2種の選択肢を用意していた。

(1)シーズン初期のGPレースは見送る代わりに、全レース出場分の報酬を受け取る。

(2)未出場分の報酬は受け取らないが、その間は別のチームで自由に走る。

ファンジオはオプション(2)の自由を選び、マセラティ250Fでアルゼンチンとベルギーの2戦に勝ち、3戦目のランスからメルセデス・ベンツに乗り換えた。

ファンジオは後年になってこう語っている。

「メルセデスが一番のチームでした。技術的に強いので、彼らと乗っている時は一切の不安がなかったのです。私が様々な変更を希望しても、直ぐに取り入れてくれたことで、12戦中8勝を果せました。残りの3回は、2位、3位、そして4位で、リタイアは1955年のモナコで1度のみ。私の概算では、勝利の75%は車とそれをバックアップしてくれているチーム、残りの25%はドライバーと運によるものだと思います」

ストリームライナーボディは晴天のランスでは都合がよかったが、雨に祟られたシルバーストーンでのブリティシュGPでは手を焼いた。コーナーではボディサイズが掴みづらいことから、練習走行では縁石に幾度か接触したのである。また、メルセデスのタイヤサプライヤーだったコンチネンタルは15年ほどレースから遠ざかっており、ドライバーはウェットグリップの悪さに悩まされた。この経験から、ファンジオとクリングはノイバウアーとエンジニアのウーレンハウトに対し、ニュルブルクリングではオープンホイール・ボディが不可欠であると訴えた。

チームは遅れていたオープンホイール・ボディの製作に拍車を掛け、3台分を用意した。ランスで勝ったストリームライナー(シャシーナンバー000 03/54)には新しいボディを架装し、加えて2台(05/54と06/54)がオープンホイールで新規に製作された。ニュルブルクリングのドイツGPでは、ファンジオ、クリング、ベテランのヘルマン・ラングがオープンボディに乗り、ハンス・ヘルマンにはストリームライナーがあてがわれた。波乱に富んだレース展開の末、カーナンバー18を着けたファンジオが優勝を果たし、クリングが4位に入った。3週間後、ファンジオは同じ06/54に乗ってスイスGPで優勝し、自身にとって2度目のワールドドライバーズチャンピオンのタイトルを手中に収めた。まさに06/54はチャンピオンカーとなったが、これ以降は主にハンス・ヘルマン用となり、1955年からはテストカーとなり、シルバーアローの連勝を支える役目を担った。



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