1970年代、栄光のモータースポーツの刹那を切り取った写真集『Paddock Transfer』

Edgar Vernon Starr



HILL IN HIS LOTUS 49
ロータス49を駆るヒル
1970年、BRDCインターナショナル・トロフィーで、ブルック・ボンド・オクソ・レーシング・チームのロブ・ウォーカー・ロータス49を駆るグレアム・ヒル。ヒルは当惑した表情を浮かべ、この週末の悪天候でのバトルに備えて、革製のモーターサイクル用グローヴと思えるものを装着している。

RONNIE AT THE READY
出撃準備完了のロニー
STPマーチ・アルファロメオのコックピットに収まる元祖"スーパースウェード"(優れたスウェーデン人の愛称)。ロニー・ペテルソンのエレガントなペイントが施されたヘルメットのフロント部分には、彼のパーソナルスポンサーであるSMOGのロゴが描かれている。このロゴは 1978年、モンツァで行われたイタリア GPのスタートラインでクラッシュして亡くなるまで、ずっと一緒に時を過ごしたものだ。多くの人がワールドチャンピオンになるだろう、なれるだろうと思っていた人物でもあるし、レーシングドライバーとしてのキャリアのなかで2度、ドライバーズ・チャンピオンシップ 2位を獲得している。1973年には 15戦中 4勝を挙げ自己最高得点を獲得するも、ドライバーズ・チャンピオンシップでは 3位にとどまった。この写真が撮影されたときは第一ヒートでのピットストップ後、アクシデントに見舞われ意識がない状態で病院に運ばれたときのもの。なお、翌日には退院が許された。

THE PRESCOTT PADDOCK
ザ・プレスコット・パドック
1973年 5月、トゥインクはブガッティ・オーナーズ・クラブのミーティングを訪れ、デビッド・ベイカーのフェラーリ 365 GTB/4 デイトナなどを撮影した。イーストサセックス州ルイス出身のベイカーはモータースポーツに熱心で、デイトナを所有した3年間において少なくとも7回レースに参戦し、常にサーキットまではデイトナを運転してきていた。ボディカラーはロッソ・ボルドー・ディノ、インテリアカラーはタバコ(今でいうタン)と記されており、1972年 3月7日に1万 40ポンドで購入。ただ、ベイカーが乗っていたフェラーリ 365GT 2+2(13797)を下取りに出したので、追い金は6290ポンドだった。エアコン、ラジオ、ナンバープレート、シートベルト、12カ月の車検付きで納車され、ナンバーは「KPC125K」だった。1972年にこのマシンでデビューしたベイカーは、所有期間中にクラス3位以内を3回獲得している。

ROLLING LABORATORY
走る“実験室”
1971年の F1ノンチャンピオン・シリーズのひとつ、インターナショナル・トロフィー(イギリス・ブランズハッチ)で、ロータス 56Bをドライブするブラジルのエース、エマーソン・フィッティパルディ(1972年、74年のF1ドライバーズチャンピオン獲得)。1968年のインディ500のためにロータスは、プラット&ホイットニー社製 ST6ガスタービンを搭載した56を投入した。チャプマンは56をF1で走らせることを考え、F1規定に合致するように改造した56Bを1971年に製作した。56Bはトラブル続きで、F1のコースでは戦闘力に欠けることが明らかになり計画はキャンセルされた。1971年インターナショナル・トロフィーが、F1史上で初めてのガスタービンカーの走行となった。

BEAR NECESSITIES
産声をあげたばかりのマシン
1967年の F1ワールドチャンピオン、デニス・ハルム(愛称が Bearだった)が 1971年、シルバーストンで開催された BRDCインターナショナル・トロフィーで新しいシャシー、M19C/1を試しているところ。1970年のグッドウッドでのブルース・マクラーレンの死から立ち直りつつあったチームはピーター・レブソンと契約し、明るい未来を手に入れたかのように見えた。ハラマで開催されたスペイン世界選手権ぎりぎり1週間前に、マクラーレンは2台のマシンをグリッドに送り込んだ。4位と5位という結果も納得のいくものだった。

NIKI’S EARLY STEPS
歩み始めた、ニキ
1974年、トゥインクはスライドフィルムで復帰しただけでなく、ドライバーを中心に据えたマシンの撮影を行うようになった。この写真はニキ・ラウダがフェラーリで初シーズンを迎え、チャンピオンシップをリードしていた時のもの。RACのミスによりピットレーンで不必要に待機させられラウダは 9位フィニッシュするも、後にフェラーリの抗議により1周追加走行が認められ、5位に繰り上げ入賞。2ポイント獲得した。

ALL DRESSED UP WITH NOWHERE TO GO
行くあてもないが着飾る
ハウデン・ガンレイ(右)が APレーシングのコンペティション部門責任者ジョン・ムーアと談笑。シルバーストンにおける“ドレッサー賞”は、中央の男性に贈られよう。キッパー・タイとブレトンキャップ帽で1972年当時のエッセンスを完璧に表現している。実にファッショナブル。ハウデンは、このレースの前の週に新しいリアマウント・ラジエター車両、をテストしていたが結果は芳しくなく、ジャン-ピエール・ベルトワーズとピーター・ゲシンだけが参戦することになった。

ハウデン・ガンレイは「あの週末はレースに出なかったけど、ピットレーンでジョン・ムーアと会話しましたね」と振り返る。ジョンはブレーキ開発のスペシャリストで、APのコンペティション部門責任者に就任して、特にAPロッキード側(現、デルファイ)を最高のサプライヤーに育て上げた。「BRM、ガルフ、ウィリアムズなど、私が所属した各チームでは、ガーリングではなくロッキードのブレーキに代えるよういってきましたっけ。後にジョンから"No.1ロッキード・セールスマン"と彫られたタンカードが贈られました。ジョンはその後 APを辞め 1983年にアルコン社を設立し、現在もブレーキとクラッチの専門メーカーとして活躍しています」

GOLDEN GRAHAM
ゴールデン・グレアム
1971年 7月、シルバーストンで開催されたイギリス・グランプリ、すでに2度のワールドドライバーズチャンピオンに輝いていたグレアム・ヒルは、キャリア復活の途上にあるように思えた。1969年シーズン終了後にインディでの大活躍のあとロータスを去ったヒルは、1970年にロブ・ウォーカーのもとでレースをしたが未勝利に終わっていた。1971と72年シーズンはブラバムのモーター・レーシング・ディベロップメントに加わり、5月に行われたノンタイトル戦のインターナショナル・トロフィー・レースでは、ロータス時代以来の F1勝利を達成した。そうした幸先のよさも長くは続かず、ヒルはシルバーストンでのスタートで脱落、オーストリア GPで5位となった2ポイントのみを獲得して、ランキング 21位でシーズンを終えている。その後 4年間レースに参戦するものの、F1で勝利の女神が微笑むことはなかった。

SEPPI’S OFFICE
セッピーの仕事場
ここはジョー・シフェールの“仕事場”である。コックピット脇のキルティングや、ペダルのフリクションパッドのリベット打ちが雑なところにも注目。ユニオンジャックが、BRMが英国のチームであることを誇示する。トニー・サウスゲイトが設計した BRMP160は、自社開発のV12エンジンを搭載した意欲的なマシンであった。このエンジンはシーズン序盤から活躍し、4度の勝利をもたらした。シフェールは、このマシンを操りオーストリア・グランプリで優勝、ピーター・ゲシンがイタリアで「史上最も接近したレース」を制した。BRMは1971年のコンストラクターズ選手権で見事 2位を獲得、翌シーズンにはジャン-ピエール・ベルトワーズが P160Bでチーム最後のグランプリ勝利を飾った。サウスゲートはその後、ジャッキー・オリバーに引き抜かれた。

A TRIO OF CHAMPION
チャンピオン三銃士
パドックでプログラムにサインする、3度の F1チャンピオンに輝いたジャッキー・スチュワートと、ヨッヘン・リント(ドライバーズタイトルを唯一、死後追贈されたドライバー)。敬愛する二人を真ん中で見守るのは、コンストラクターズの“王様”コーリン・チャプマン。チャプマンはスチュワートをロータスに乗せると公言していたが、実現することはなかった。スチュワートは友人であり、師匠であり、ヒーローであるジム・クラークがホッケンハイムでクラッシュして亡くなったときに乗っていたチームでレースをする気になれなかったという説がある。また、もともとケン・ティレルのクーパーF3チームからBRMに移籍し、改めてティレルが率いるチームに“出戻り”したスチュワートは忠誠心が強すぎて、移籍しようとは考えられなかったのではないかとの説もある。

THE CHASE IS ON
繰り広げられる追走劇
モチュール・スポンサーのチームBRM P 160Eを駆るフランソワ・ミゴールは、予選でニキ・ラウダから猛追を受ける。BRM時代のミゴールはペスカロロやベルトワーズといった同朋から強力なサポートを受けていたとはいえ、決して幸せなドライバーではなかった。ル・マンを故郷とする彼にとって24時間耐久レースは常に重要で、1969年から2002年までの間に計 27回出場している。最高位はアメリカのミラージュGR8チームから参戦した2位だった。マトラ・シムカとロンドーで 3位を獲得したこともあったが、どのトップレベルの競技でもいえることだが優勝の座は遠かった。残念ながら2012年、癌のため67歳という若さでこの世を去った。



「Paddock Transfer -EV Starr Snaps the Supersonic 70s, Volume 1 1970-74」(ティム・ビーヴィス、ガイ・ラヴリッジ著)はダグラス・ラヴリッジ出版(ISBN 978 1 900113 182)から発行され、ティム・ビーヴィスのアーカイブからオリジナル写真も収録。価格は40ポンドで、サイン入りの400部限定版として、出版社(Connaught_Book@mail.uk)から直接通信販売で購入することができる。イギリス国内は送料5ポンド(そのほかの地域はお問い合わせください)



編集翻訳:古賀貴司(自動車王国) Transcreation:Takashi KOGA (carkingdom)

編集翻訳:古賀貴司(自動車王国)

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