マセラティ ビトゥルボ40周年を祝う祭典|1台のみ製作されたレアなプロトタイプも登場!

MASERATI CLUB ITALIA, Shinichi EKKO

今年はマセラティにとっての大きなテーマは“GTカー生誕75周年”だ。そのヘリテージを引き継ぐべく、正式デビュー間近となった次期グラントゥーリズモの概要が段々と明らかになってきている。“フォルゴーレ”と称す電動化へのシフトのイメージリーダーともなる次期グラントゥーリズモの登場はマセラティ史の中でエポックメーキングな局面である。

振り返ってみるなら、ワークスチームの解散を決断しGTカーをラインナップのメインストリートとする決断を下した1957年はマセラティが大きく変わった瞬間であった。そして、それと同じくらいインパクトがあったのが40年前にデリバリーが始まったビトゥルボの誕生ではないだろうか。それまで大排気量の大型GTを少量生産したマセラティが、突然、BMW3シリーズと同じようなサイズの小型クーペを大量生産すると発表したのだから、それはセンセーショナルな出来事であった。

そんな驚きのプロジェクトを発案し、政府や地方自治体から雇用確保のための補助金を引き出しながら、マセラティを復活させたのがデ・トマソ アウトモビッリのオーナーであったアレッサンドロ・デ・トマソであった。彼はオイルショックで壊滅した大型スポーツカー・マーケットにおけるビジネスの難しさをよく理解していたから、経営をまかされていたマセラティの生きる道は小型モデルの大量生産しかないと考えた。2000cc以上のエンジンを備える車両への高額な課税を避ける為、1995ccのV6エンジンを新規開発し、当時F1でトレンドとなっていたツインターボを市販モデルとして初採用した。その“ツインターボ”のイタリア語がモデルネームとなった“ビトゥルボ”だ。

デ・トマソの読みは当たり、イタリアを始めとして各国からビトゥルボのオーダーが殺到した。当初から重要ターゲットと考えていた北米マーケットからの反応も上々で、あっという間にマセラティはモデナ最大の自動車メーカーとなったのだ。

しかし、デ・トマソというオトコはアイデアマンではあったが、ビジネスを発展させる能力に関しては徹底的に欠けていた。ラインナップやマーケットの拡大にはいくらでも投資したが、品質管理やアフターサービスなど、大量生産メーカーとして行わなければならない“改善”へは全く関心を示さなかった。その結果として、品質にまつわる問題が炎上し、リコールの嵐となってしまったのだ。残念なことに、ビトゥルボの評判は地に落ちてしまった。1980年代後半になると北米マーケットからも撤退することになり、ディーラーのバックヤードは在庫車の山となった。最後まで忠誠心を忘れない唯一のマーケットが日本であったのは皮肉なことだった。

デ・トマソが病に倒れた後、マセラティの経営を引き継いだフィアット(現ステランティス)、フェラーリのマネージメントにおいて、最重要課題とされたのがデ・トマソ色の排除であった。であるから、現在に至るマセラティ史においてこのデ・トマソ時代は封印されたのだった。

しかし、ビトゥルボも既にクラシックカーの仲間入りをしている。敬虔なマセラティスタにとっても、ビトゥルボがマセラティとの縁を作ってくれたというノスタルジックな思いは強い。ビトゥルボの価値が再評価される時がやってきたのだ。

特にヨーロッパでは最初期の2Lモデル。それも微妙な調整が難しいとされたウェーバーキャブ付きモデルがコレクターズ・アイテムともなってきた。もちろんしばらくの間、忘れ去られた車であったから、コンディションの良い個体を見つけることはそう簡単ではない。しかし、マニアの間の情報網によって素晴らしいコンディションの個体が発掘されたり、デッドストックのパーツを活用してレストレーションが行われ、マーケットに美しいビトゥルボが姿を見せるようになった。



先日、そんなビトゥルボの祭典がモデナで開催された。ビトゥルボクラブ・イタリアという超マニアック集団とマセラティクラブイタリアとの共催によってビトゥルボ40周年を祝う三日間のイベントが開催されたのだ。初期2Lモデルから、ビトゥルボ系マセラティ製エンジンが最後に搭載された3200GTまでの80台が集結し、ピアッツァ・ローマにビトゥルボ・ファミリーが並んだのは壮観であった。



今回のミーティングの目玉は初期型イタリア国内向け2Lビトゥルボのプロトタイプであった。カラーバリエーションの検討のため、鮮やかなメタリックブルーのペイントが施されたもので、一台のみが製作されたという超レアモデルだ。初期型モデルの内装はあまり品質の良くないビニールレザーが用いられ、概してインテリアのヤレは激しく、オリジナルへの補修はそう簡単なことでない。ところが、この個体はまさに昨日ラインオフしたかのような新品同様のコンディションであった。





ビトゥルボをじっくりと眺めたあとは、隣接するドゥカーレ宮の貴賓室にてガラディナーが開催された。イタリアのクラブを取り仕切る(もちろん彼もビトゥルボ・マニアである)クラウディオ・イヴァルディがこの大イベントをコーディネートしたのだが、この日は彼の筆による、“ビトゥルボ大辞典”たる”MASERATI L'ERA BITURBO"の完成披露も兼ねていた。



デ・トマソの申し子とも言うべきビトゥルボだが、会場ではデ・トマソシンパも、アンチ・デ・トマソ派も入り乱れ、モデナの夜はなかなか終ることはなかった。


文:越湖信一 写真:MASERATI CLUB ITALIA、越湖信一
Words: Shinichi EKKO Photography: MASERATI CLUB ITALIA, Shinichi EKKO

越湖信一

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