イソの魂よ、永遠に|救世主の登場で、たった9台だけが再製作されたイソ A3/C

Photography: Henri Thibault

イソ・グリフォの特徴的なボディラインの美しさは永遠だ。官能的な魅力を感じさせてくれる。そのなかでも魅力的なコルサ仕様であるA3/Cが、残されていたオリジナルのパーツを用い、ピエロ・リヴォルタ自身の支援のもとで元イソの技術者の手によって、9台だけが再製作された。



冷蔵庫製造からの転身


イソ社は、“Ingegnere”(イタリア語で優秀な技術者を示す)のレンツォ・リヴォルタの手によって1939年に創業された冷蔵庫製造会社であった。1950年代には、イタリアにおける旺盛な自動車需要に応えるため、三輪トラックとスクーターの開発に着手。その後、有名な超小型モビリティー、イソ・イセッタを世に送り出した。だが、イセッタより実用的で安価名フィアット500(ヌォーヴァ・チンクエチェント)が登場すると、イソ各車のイタリア国内での販売は急降下してしまった。しかしながら、安価なモビリティを求めていた欧州の他国のメーカー、すなわちドイツのBMWやフランスのヴェラムはイセッタの自社生産を望み、ライセンス契約を結ぶことでイソは大きな収益を得ることができた。

イタリアの経済が上向くと、富裕層はより速くより、よりラグジュアリーな車を求めるようになっていった。これを見て取ったレンツォ・リヴォルタは、1960年代に入って間もなく、高性能なラグジュアリーカーの生産へと舵を切った。この時期、レンツォ・リヴォルタと同様に異業種からラグジュアリーカー生産に参入した例には、フェルッチョ・ランボルギーニの存在がある。リヴォルタもランボルギーニも、フェラーリのさまざまなモデルに乗り、自らが理想とするモデルを自ら造ろうと考えたのであった。

パワーソースをアメリカンV8に求める


1962年、リヴォルタにとって初となる高性能ラグジュアリーカー、イソ・リヴォルタを発表した。その心臓部にはイタリア製ではなく、パワフルで信頼性の高さに定評があるシボレー製の“327”、5.4リッターV8エンジンを採用し、最も大人しいモデルのIR300でも300bhpを発揮した。パワフルでありながら高い信頼性を備えることは、レンツォ・リヴォルタ自身が、彼の車とモデナやマラネロ製の車との差別化を図るために強く望んだものであった。シャシーは、フェラーリ出身の敏腕エンジニアであるジオット・ビッザリーニが設計し、見る者に高貴な印象を感じさせる2+2クーペは、カロッツェリア・ベルトーネのジョルジェット・ジウジアーロが描いたものだった。

イソにとって初の高性能ラグジュアリーカーとなったイソ・リヴォルタIR300。

潜在的な顧客への販売に向けて、リヴォルタは自分の工場近くのアウトストラーダ上でテストを繰り返して熟成に務めた。

レーシングバージョン、A3/C


レースを知り尽くしたビッザリーニが関与したイソであることから、レーシングバージョンが誕生したことは当然の成りゆきであり、登場すればその需要は明らかであった。市販車とは異なるチューブラー・シャシーを備えたコンペティション・モデルのイソA3/C(Cはコルサを示す)は、1963年のトリノ・モーターショーでデビューを果たした。ショー会場で人々を驚かせたのは、A3/Cのスリークなアルミニウム製ボディが無塗装のままであることだった。このほかに、ジウジアーロが手掛けた2座のロードカー、A3/L(ルッソ)もデビューを果たした。

1963年のトリノ・ショーでは、ジウジアーロが手掛けた2座のロードカー、A3/L(ルッソ)が加わった。

イソA3は、より優れた重量バランスと重心高を低めるため、400bhpを発揮するV8エンジンをリヴォルタより40cm後方に下げて搭載していた。また、軽量化に注力した結果、A3/Cの車重はおよそ1000kgに留められた。フランスのオーギュスト・ヴイエが1964年の第14回ル・マンにエンターしたピエール・ノブレ/エドガー・バルニー組のA3/Cは、ブレーキのトラブルを抱えながら、14位で入賞を果たした。

1964年にビッザリーニがリヴォルタと袂を分かって、1965年に独立するまでに、22台のA3/Cがイソのバッジをつけて生産された。レンツォ・リヴォルタは1966年に亡くなり、会社は1974年の業務停止までのあいだ、グリフォ、レーレ、フィディアなどラグジュアリーモデルの生産に注力した。

イソA3/Cにとってのレースデビューは、1964年のセブリング12時間で、ウィリアム・マクラフリンがエントリーし、ウィルソン/マクラフリン/ヒューガスのドライブで39位(完走40台)だった。

石油危機の勃発によってイソが売れゆき不振から経済危機に陥ったとき、創業者の子息であるピエロ・リヴォルタとビッザリーニが支援を試みたが、その甲斐はなく、会社は倒産した。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:オクタン日本版編集部

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