元オーナーが語るイタリアの高級自動車メーカー イソのすべて

Portrait:Mark Dixon

イタリアの自動車メーカー、イソ・リヴォルタの元オーナーは、アメリカに移住して数十年になるが、イタリア人特有の魅力をまったく失っていない。

高級車とロックスターといえば、いかにもよくある組み合わせだ。しかし、イタリアで高級GTを生産していたイソの元オーナー、ピエロ・リヴォルタと、ロックバンドAC/DCのボーカル、ブライアン・ジョンソンとの出会いは、ごくありふれたものだった。フロリダの高級住宅街で数百メートル離れたところに住むご近所同士だったのだ。車への情熱を共有する二人が友人付き合いを始めるのは当然のなりゆきだった。

ブライアンは2014年にOctaneと組んでミッレミリアに参戦した。その縁でピエロを紹介され、Octaneはこうして海辺にあるリヴォルタ邸を訪ねる運びとなった。エスプレッソとビスコッティを味わいながらすぐに分かったのは、たとえ故郷から遠く離れた地に住んでいても、ピエロと妻のレーレは、イタリア人特有のユーモアと人生を謳歌する姿勢を失っていないということだった。楽しげにきらきらと輝く目をしたピエロは、髪とひげを真っ白に染めたら、誰もが心に描くサンタクロースそのものだ。



夫妻は1980年から、ここサラソタに住んでいる。生い茂る木々や絡まるつたに隠れるように建つ家の中は、美術品やアンティーク、思い出の品々でいっぱいだ。ピエロの人生は単に車一筋のものではなく、イソの全盛期だった1960年代以降、その幅は大きく広がってきた。現在は土地開発や高級ヨットの事業に関わる傍ら、詩や散文を書いて出版し、「サラソタのルネサンスマン」と呼ばれるまでになっている。だが、初恋の相手は車とスピードだった。愛が芽生えた場所は、父レンツォの所有するファクトリーだ。そこで子ども時代の大半を過ごしたとピエロは回想する。

「ファクトリーにはテストコースがあって、よ
く自転車で走り回ったものさ。そのうちにバイクになった。15、6歳になると、イセッタでコースを全開で走っては、わざと外のグラベルに飛び出してハンドブレーキを引き、何回スピンできるか数えたりもした。あの頃のイタリアはすばらしかったよ。第二次世界大戦が終わって国全体が成長しつつあり、誰もがエネルギーに満ちあふれていた」

レンツォ・リヴォルタは材木商として身を立て、1939年にイソサーモスという会社を買い取った。"温度は常に一定"をキャッチフレーズに冷蔵庫などを製造する会社だ。1941年には、18世紀初頭に建てられた美しいヴィラにファクトリーを移転した。老朽化してはいたが、ピエロによれば、「従業員でいっぱいならドイツ人が占拠する隙もないだろう」というのが移転の理由だったという。ヴィラにはかなりの敷地が付属しており、戦後は会社を拡大する際に大いに役立った。

豊かな声を持つピエロは、イタリア訛りの強い英語でこう続けた。「父は常にフルスピードで進むのが好きだった。そこで、戦後はモーターサイクルの製造を始めることに決め、社名から"サーモス" を消した。すばらしい事業だったし、父はたいへんうまくやった」

イソは、バブルカーの先駆けであるイセッタでも大きな利益を上げた。1955年からはBMWがそのライセンス生産を始めた。



「だが、モーターサイクルの事業は行きづまり始めた。誰もが車を欲しがるようになったからだ。父にはある考えがあった。速い車が好きだったが、自分にぴったりの車、速くて快適で信頼性もある車が見つからず、しょっちゅう乗り
変えていたんだ。マセラティ3500や、ジャガーも2、3台所有していた。日常使いはずっとランチア・アウレリアだった」

「父は、真の意味で毎日使うことができる速い車をイソで造るしかないと決意した。価格はジャガーとフェラーリの中間くらいで、パワフルで加速とロードホールディング能力に優れていて、運転がしやすい車だ。個人的には最後の要素が非常に重要だと思う。私は、運転の仕方を学べと言われるのが大嫌いなんだ。悪いが、車が人間の言うことを聞くべきであって、その逆じゃない。だから昔のポルシェは好きになれないんだよ……」

「結局、父が買う車はジャガーに落ち着いた。マセラティのエンジンは常に信頼性抜群とはいえなかったからだ。したがって、父が自分で造る車にはアメリカのエンジンを使う以外に選択の余地はなかった。父は、製造の品質もフェラーリよりジャガーに近いものにしたいと考えて大金を投じた。1日あたり5台生産が目標だった」

レンツォ・リヴォルタにとって理想の車は、1962年にイソ・リヴォルタGTとして現実された。ベルトーネ時代のジウジアーロがデザインした端正な4座のクーペで、すっきりとしたスリーボックス・スタイルと広々としたグラスエリアが特徴だ。洗練されたシンプルさは同時代のBMWにも匹敵するだろう。ボンネットの下には327cu-in(5.7リッター)のシボレーV8エンジンを搭載し、レンツォの求めるパワーと信頼性を兼ね備えていた。この2点は、若
きピエロも大いに活用した。

「アウトストラーダで速い車を追いかけ回すのが一番の楽しみだった」とピエロは笑い、ビスコッティをつまんで話を続けた。

「マセラティのドライバーはそれほど好戦的でなかった。ランボルギーニのドライバーには挑戦的な者もいたが、すぐに諦めた。だが、フェラーリのドライバーは徹底的に戦い抜いたよ。いい勝負になったのは、あるフェラーリだけだった。母とサンタ・マルゲリータに向かっていたときだ。他の車に抜かれると母と妻はよく私をけしかけたんだ。『ピエロ、イソ・リヴォルタに乗っていながら何を考えているの。どうして黙って抜かせるのよ』と言ってね。そのときはアウトストラーダの料金所でフェラーリが私の横に並んだ。スカリエッティのボディだったと思う。向こうが先に券を受け取ったので最初は引き離されたが、すぐにとてつもない戦いになって、抜きつ、抜かれつを繰り返した。相手の車は加速とブレーキでは劣っていたが、少しだけ速かった」

「間もなく山間部に入り、道が悪くなった。あるカーブに差し掛かったときだ。奥に行くほどきつくなり、山に隠れて見通しがきかなかった。相手はすごいスピードで入っていったが、目の前の坂を大きなトラックが走っていたんだ(こ
こでピエロはブルブル…とディーゼルエンジンの音を上手に真似した)。フェラーリは少しスリップしてトラックの後部にぶつかったが、止まらなかった。ドライバーは見事な腕で立て直して走り続けたんだ」

「ようやくカーブがなくなって道が開け始め、次の料金所まであと数百メートルのところで私はフェラーリを抜くことに成功した。ドライバーが私の横に車を止めて、『イソ・リヴォルタがいい走りをするのは知っていたが、あんたは何者だ』と聞いてきた。



私が名乗ると、『ああ、それで納得したよ。私はカビアンカだ』と言うんだ。名前を聞いて私も納得した。彼は"山の
王" と呼ばれていたレーシングドライバーで、マウンテンレースは全部勝っていたんだ。だが、モデナでクーパー・フェラーリをテスト中に亡くなったよ。本当にいい人だった」

編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.) Transcreation:Kazuhiko ITO( Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words and Portrait:Mark Dixon

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