追悼 ジャガーの伝説 ノーマン・デュイス

Photography:Paul Harmer



アボットがこの説明を引き継いだ。
「見習い研修のスタートは、まず工場を周り、早く慣れるよう努力させるんです。各部門で3カ月間研修を受けますが、採用が見送られる場合もあります。常に努力が求められ、他にもっと優秀な研修生がいた場合には、『残念だが、君は不採用だ。他に入りたい人がいるのでね』となります。ここでいつもノーマンに出番が回ってきます。彼は『実のところ、わしはこいつが好きなんだ。奴にもう3カ月のチャンスをやってくれんかね』とね。

「そして、『ここに入ったら訓練を受け一所懸命やらんとい
かん』よ。雇われ仕事、お仕着せ仕事だと考えん方がいい。一所懸命にやることだ。そして車へのフィーリングを持たんとダメだ。もしそれを持てなかったらテストすることは時間の無駄だ。わしは常に彼らが一所懸命かどうかを確かめていたものだ」とデュイスはいう。

集まってきた若者たちの多くは、デュイスの1950年代のル・マンとミッレミリアでの活躍に影響されたに違いなく、彼らはテストエンジニアをレーシングドライバーと同義語のように捉えていた節があった。デュイスは、まずその誤った考えを取り除いた。

「わしは、こうゆう連中を仕事から外して、計器を読んだり
タイムを記録するオブザーバーにしたものだ。そしてこれらのテストをどうやるかを教え、彼らに責任をもたせた。これは、こいつらのことではないけれど、しかし研修生の何人かは、入社してからもレースのことが頭から離れんようだった。頭の中は常に"シルバーストン、スターリング・モス⋯"だ。わしはそれでも彼らを見捨てなかったさ。わかるかね?そしてブレーキテストに連れて行った。テスト終了前に最後にやるのは、時速100マイルからのブレーキングを45秒間隔で、30回で行うことだった。彼らは了解し、そしてわしは言った『計器から目を離すな。減速度を見逃さないようにして、記録するんだ』と。だいたい12回ぐらいやると、突然やめなきゃならんことになる。ドアを開けて出てくる奴らは、だいたいは車酔いだ。それで目がさめるわけだが、これは存外にきつい仕事だ」

1966年に参加したテイラーは、その時の実習レポートを今でも保管していて、それを捲りながらはなし初めた。「ちょうどEタイプがシリーズ1の4.2になっていた時でした。私たちは5 速トランスミッションを模索していた時期で、MIRAのコースではかなりの距離を走り込みましたが、結局、それは生産には至りませんでした。私は、私たちのウエールズのテストルートを毎日毎日、『くそったれ!金のためにやってんだ!』と思いながら、5速のEタイプで走り回ったのを思い出します」

「1966年のことでした。プレス用420Gのテストで、私はも
う一人の研修生と一緒でした。私がEタイプで彼はデイムラー420ソブリンをそれぞれ担当し、ウエールズルートを長い時間走り回りました。標高の高い場所ではちょっと雪模様だったある日、シャロップシャーヒルズからニュータウンに下りるルートで、彼はこの"クソ"デイムラーでスピンしたんです。私はコーナーを回る度に彼がついてきているかどうかをバックミラーで確認しましたが、あるコーナーでミラーを見ると彼は後ろを向いて、車の反対側を落としてフェンスの支柱に寄りかかっていた。私たちは、なんとか脱出してニュータウンまで下り、昼食と給油をしました。昼食の後で同じ丘に再度戻り、私は雪解けのぬかるみ道で車列を追い越し、彼も続いてきましたが、私が彼らを抜いた途端に彼が消えました。土手を上がって向こう側に転がり落ちてしまったんです」



翌日、デュイスはつまらなさそうな顔で、この重要なテスト許可を取り下げてしまった。

編集翻訳:小石原耕作(Ursus Page Makers) Transcreation:Kosaku KOISHIHARA( Ursus Page Makers) Words:James Page 

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