無冠の帝王サー スターリング・モスとジャガーCタイプの歴史

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1953年 ル・マンのピット
1953年ル・マンのジャガーピットでのワークスCタイプ。この時期のカラー写真は極めてめずらしい。撮影者は、他ならぬ先のジャガーメカニック/Cタイプドライバーで、後にフェラーリで3度ル・マンを制するフィル・ヒルだ。モスはカーナンバー17を付けた自らの車(164WK)の横。その後方のピットの中では、彼の父親のアルフレッドがジャガーのボスであるウィリアム・ライオンズと話している。茶のシャツのロフティ・イングランド監督の手前、右側のカーナンバー18(774RW)がロルト/ハミルトン組の優勝車。左側に覗いているのはカーナンバー19(194WK)、4位に入ったホワイトヘッド/スチュアート組のマシン。



1952年 ル・マン
この年のル・マンには、3台の印象的なドループスヌート(垂鼻)ノーズのCタイプが投入された。直線路での空力の改善を意図して、ル・マンの直前に造られたロングテールボディのワークスCタイプ。モスは前年ミッレミリアで最新のメルセデス300SLクーペの直線路でのスピードに驚き、ジャガーの創始者ウィリアム・ライオンズに対して、「ル・マンの3マイルにおよぶミュルザンヌストレートではドイツに対して勝つチャンスは皆無だろうと」告げた。ドループスヌートはその回答だった。しかし鼻を低くするためにラジエターグリルを小さくし、ラジエター・ヘッダータンクをラジエターから遠く、かつエンジンルームの熱をまともにうける後方のスカットルの隔壁に移すことで、プラクティスの段階からオーバーヒートの問題が浮上した。そして1952年型のCタイプは速度的には改善されていたものの、全車がオーバーヒートでリタイアに倒れ込んだ。モスのマシンはオリジナルシャシーXKC011だった。



1953年 ランス
ウイニングラン。ランスサーキット南のティロワ村のヘアピンを抜け、1953年ランス12時間のビクトリーランへ向かうモスは、シャンパーニュ地方の真夏の太陽に焼かれている。ワークスC タイプの最新装備は世界初の実用ディスクブレーキだった。巨大なフロントキャリパーへのステアリングロック時のクリアランスを稼ぐために考案された、吊り下げ式フロント・アンチロールバーが確認できる。C タイプのボディラインは単にスマートなだけではなく、スムーズで美しいプロポーションを備え、220bhp ながらル・マンやここランスのような長い直線路で高いマキシマムスピードを達成した。



1953年 ランス
1953年のランス12時間レース。優勝のゴール直後。モスの左側は母親のアイリーン。彼の右側のネクタイの紳士は、ジャガーのチーフエンジニアでありCタイプのデザイナーのビル・ヘインズ。そして彼のコ・ドライバーで都会的で上品な紳士であり農場主のドライバー、ピーター・ホワイトヘッド(手前右から二人目)。彼らが足を突っ込んでいる優勝車はディスクブレーキ装備のワークスCタイプ"XKC012"。翌1954年、ジャガーメカニックのフランク・レインボウがル・マンへの回送中にフランス一般道での事故で全損となる車だ。



1953年 ミッレミリア
モスは彼のワークスCタイプ"XKC011" とともにブレシアでの車検に臨んでいる。車両のカーナンバー542は、定められたスタート時間を示す。5時42ということは、早朝の日の出前だ。モスは前年ジャガー社のテストドライバー、ノーマン・デュイスと組んでワークスC タイプで健闘するもリタイア。この年、彼のナビを務める若手ナンバーワンのドライバー「モート」ことモーリス・グッオールは厳しく練習に励んだが、そのため車はレース当日までにかなり使い込まれてしまい、残念ながら最初のコントロールポイント手前でリタイアに終わった。

編集翻訳:小石原 耕作 Transcreation:Kosaku KOISHIHARA Words:Doug Nye

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