フェラーリ創業当時を解き明かすヒントとなるダークホース|166インター・スパイダーコルサ

Photography:Charlie Magee

創業当時のフェラーリについて解き明かすのは容易ではない。この166スパイダーコルサの生い立ちが、小さなヒントになるかもしれない

理想の車を求めて
ここに紹介するフェラーリ166インター・スパイダーコルサ(シャシーナンバー.012I.Iのサフィックスはインターを示す)は、現在まで多くのヒストリーを積み重ね、草創期のワークス・フェラーリを語る上で欠かせない存在である。それは、まだフェラーリがセクシーなボディシェルとパワフルなエンジンを擁してレースで活躍の場を広げる以前の話だ。

この166"012I"は、エンツォ・フェラーリが自らの姓を関した車を造り始めてからわずか9台目、166モデルとしては6台目に当たる。そして166シリーズこそ、フェラーリが国際舞台へ引き上げたモデルであった。

エンツォは、スクーデリア・フェラーリとしてアルファロメオのレース活動を牽引してきたが、1939年にアルファとは離別してしまう。これを機に独立し、自らの車を製造することを目標に掲げたが、実現までにはクリアすべき問題があった。アルファロメオを退職する際に、4年間はフェラーリの名で車を製造しないという契約を結んでいたからであった。そのためにエンツォはアウト・アヴィオ・コストルツィオーニと名付けた会社を設立して、その時が来るのを待った。そこに1940年ミッレミリアへの出場を計画するジェントルマンドライバーから車を製造してほしいとの注文が舞い込んだ。エンツォは、フィアット508Cバリッラのシャシーを改造し、その4気筒エンジンを2基繋いだ8気筒1500ccエンジンを搭載、トゥーリング製のボディを架装。2台のアウト・アヴィオ・コストルツィオーニ・ティーポ815を完成させた。

自らが思い描くレーシングマシンを造りたいとのエンツォ・フェラーリの夢は、連合国軍によってミラノが解放されると同時に、彼と少人数だが優秀なチームとによって実現に向けて動き出した。その時、すでにアルファとの取り決めも解け、フェラーリの名を冠することができるようになっていた。1.5LのV型12気筒エンジンを白紙から設計したのは、アルファロメオにあって多くの名作を生んだジョアッキーノ・コロンボ技師だった。1946年9月にエンジンの初テストを終えると、翌47年3月には最初のプロトタイプが走行した。その2カ月後、参戦わずか2戦目のローマ・グランプリで、ランコ・コルテーゼがドライブした125スパイダーがフェラーリ社にとって初となる勝利を果たした。1948年初頭には排気量を1497ccから1995ccに拡大し、125は166へと姿を変えた(いまさら読者には説明の必要はないだろうが、12気筒フェラーリのタイプ名は1シリンダー当たりの排気量を示す)。

この166によって、フェラーリはモータースポーツのトップカテゴリーにおいて主役の座を掴んだ。1948年のタルガ・フローリオとミッレミリアで優勝すると、同年11月にはフェラーリとして初めてモーターショーにも登場している。トリノ・ショーで展示されたのは、166インター・クーペと、オープンボディの166MM(ミッレミリア)だった。166MMは"バルケッタ(小舟の意)"の愛称で親しまれ、高名なミラノのカロッツェリア・トゥーリングによる美しいシルエットを持つことから好評を得て、166にのみならずフェラーリの名をいっそう有名なものにした。


このフェラーリ166は1959年ミッレミリアに出走し、カーナンバー722を付けた。同じ番号をスターリング・モスのメルセデスベンツが付けたのは、その5年後のことだ

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編集翻訳:伊東 和彦(Mobi-curators Labo.)Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Richard Heseltine

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