数奇な運命を辿ってきた貴重な一台│ムッソリーニの元を離れてから

Photography:Ashley Border

この記事は『驚きのヒストリーが秘められていた「残骸」のようなアルファロメオ6C 1750SS』の続きです。

まだアメリカにあるときに車を検分したアルファの専門家ジョン・デ・ボーアは、どちらの写真も同一の1750SSだと考えている。撮影日とされている1929年7月の日付が間違っているか、契約を結ぶ前に車が試験的に貸し出されたのではないかというのだ。それでも、ナンバープレートには辻褄の合わないことがある。ジョンによれば、1929年の写真に写るナンバーは1927年にさかのぼるもので、したがって1750SSに割り当てられるはずはない、というのである。ひょっとするとこれは偽のプレートで、写真撮影のために取り付けられたのだろうか。

意外なことに、ファリーナ製ボディにはあまり特徴がなく、専門家でもなければ、ザガートなどのボディと見分けがつかない。これは、コーチビルダーが独自性を発揮する余地がかなり制限されていたからだ。ニック・ベンウェルが説明してくれた。「アルファはラジエター、ボンネット、スカットルを装着した状態のランニングシャシーをコーチビルダーに引き渡しました。したがって誰がボディを造っても、前の半分は同じだったのです。フェンダーのフレアも同様に限られていましたし、シャシーには燃料タンクとスペアタイヤも装着されており、それがリアでできることを限定していました」



それにしても、尊敬されるカロッツェリアが仕立てたエレガントなボディを捨てて、現在のように不格好なものを着せるとは、いったい何があったのだろう。

その答えは、1930年代末以降のヒストリーに隠れている。1750SSは、1931年8月18日にムッソリーニの元を離れると、4人のオーナーを経て、1938年秋にエリトリアの首都アスマラに運ばれた。東アフリカにあるエリトリアは紅海に面した国で、1889年からイタリアの植民地だった。新イタリア帝国を構想していたムッソリーニは、その計画の一環として、1936年に隣国エチオピアを併合。以来、エリトリアは未来派建築の展示場と化し、イタリアの"第二の家"となった。

1930年代の建築遺産は、長らく貧困にあえぐエリトリアに今も残っている。老朽化した建築物の中に、アルファロメオの拠点も現存する。「Alfa Romeo」という金属製のロゴが、正面玄関の上に高く掲げられ、その周辺は現在もアルファロメオ地区と呼ばれている。第二次世界大戦までは高性能なイタリア車が数多く輸出されたため、戦後は果敢なコレクターがエリトリアを訪れて、名車を何台も発掘した。その代表がコリン・クラッブで、1970年代初頭、一回の訪問で、1954年フェラーリ・モンディアル、マセラティ4CM、アルファ8C 2.3などを持ち帰った。

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.)  Transcreation:Kazuhiko ITO (Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:木下 恵 Translation:Megumi KINOSHITA Words:Mark Dixon 

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