「キング・ケニー」「ステディ・エディ」「ミスター100%」 WGPレジェンドライダーが11月、鈴鹿に登場!

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エディ・ローソン

・Eddie Lawson 1958生 国籍 アメリカ
・WGP時代のライバル:W・レイニー C・サロン、W・ガードナー、平忠彦、etc.
・タイトル:1984、86、88、89年 WGP500チャンピオン。1981、82年 AMAスーパーバイクチャンピオン


子供の頃からローソン少年の憧れはケニー・ロバーツだった。父親の援助でダートトラックレースで腕を磨いた後、1980年にカワサキを駆ってAMAスーパーバイクに転向すると、すぐにその非凡な才能は発揮されることとなる。

AMAデビュー年のライバルが、強敵、ヨシムラ・スズキのウェス・クーリーだった。予想通り激しいトップ争いの展開になったが、残念ながらこの年はヨシムラに軍配を許してしまった。しかし、翌1981、82年と連続してチャンピオンを獲得することに成功する。

カワサキは、これを記念してZ1000Rローソンレプリカをいち早く市販したが、このオートバイは81年82年に市販され、カワサキブランドを不動のものにした。こうしたアメリカの巨大マーケットへの貢献も見逃せない彼の偉業のひとつと言えるだろう。

この速くて強いローソンをヤマハは見逃さなかった。

WGPを引退したアゴスティーニが代表を務めるマールボロ・ヤマハは彼との契約に成功し、いよいよローソンの本格的なWGP舞台の幕が上がることになる。



契約の年、1983年のチームメイトは子供の頃から憧れのライダー、ケニー・ロバーツだった。

このシーズンは、ちょうど前年1982年にF・スペンサーがデビューし、ホンダは4ストロークダ円ピストンのNR500を諦めて、新た開発した2ストローク3気筒のNS500を開発投入して力が入っていた年で、予想通り、ロバーツとスペンサーは熾烈な一騎打ちを展開した。両者一歩も引かず、6勝ずつでポイント争いとなった結果、スペンサーの勝利となったが、このことがヤマハの開発陣に火をつけた。

83年マシンの欠点を徹底的に修正し完成した84年マシンは「最高の仕上がりです!これならスペンサーに負けない…」の声を聴かず、すでにロバーツは83年で引退を決意していたのだ。残ったローソンは一人でヤマハを背負って立たねばならない難しい立場に立たされることになったが、熾烈な戦いの末に見事にスペンサーを破ってWGP500の初タイトルをものにした。

そして、翌年こそまたスペンサーにその座を渡したものの、1986年、1988年とタイトルを獲り、1989年にロスマンズ・ホンダに電撃移籍するや、見事にレイニー、ガードナーを下してチャンピオンを獲った。

翌1990年には再びヤマハと契約することになるが、この年の鈴鹿8時間耐久レースこそが、歴史に残る平忠彦とコンビを組んだ「資生堂テック21」だ。

その後、1991年にカジバに移籍し、1992年に現役を引退。500cc通算31勝!

引退後は4輪レースに転向し、1996年にはCARTに参戦している。

文:大林誠二 Words: Seiji OBAYASHI

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