美しい車を作り出し、日本で論争を起こしたドイツ人デザイナー

octane UK

ニューヨークを拠点とする工業デザイナー、コスモポリタンで魅力あふれるアルブレヒト・ゲルツに関わる最大の論争がある。彼が、ダットサン240Zを創造したか、否かということだ。

ゲルツは、1962年に顧客獲得のために日本を訪れた。連絡もアポを取らず、日本語も話
さない彼が、日産と1年間のコンサルタント契約を結んだ。

彼の最初の任務は、シルビア・クーペ。さらに、日産が米国市場への参入を目指し、ヤ
マハとスポーツカーを共同開発する際に、ゲルツにスタイリングを依頼した。日産が開発を中止した後も、ゲルツは日産と仕事を続け、1969年型240Zは、自身が大きな影響を与えたと考えていた。しかしドイツ人ジャーナリストにより、ゲルツと240Zの関係が公表されたことは、企業が主役で、個人、特に外国人は二の次、という原則を持つ日本側にとっては行き過ぎだった。

日産との争いの末にゲルツは、1980年に日産から「240Zのデザインはゲルツのデザイン
の影響を受けた」と書かれた手紙を受け取ったと、後に記している。彼の前半生は、かなり変わっている。ドイツの貴族に生まれ、学校卒業後にドイツやイギリスで銀行の仕事を得た後、22歳でアメリカに旅立った。

彼はLAでカスタムショップを開き、1940年型マーキュリーを改造して「パラゴン」と名付けた。移り住んだニューヨークで、レイモンド・ローウィからパラゴンを絶賛され、ローウィのデザイン会社に招かれた。その後、自動車業界について学び、3年間ほどインディアナ州のスチュードベーカーに送り込まれた。再びニューヨークに戻った後、ローウィに解雇された。このことが、ゲルツの独立独歩に拍車をかけた。

彼はアシスタントなしで、全ての作品を制作した。彼に言わせれば、「集団で設計を考
えても、何もいいものは生まれない。」ということだ。輝かしい業績は、ニューヨークで1954年に、ゴージャスなBMW 507ロードスター、さらに503ツアラーを創造したことだ。ほぼ自由にデザインを任されただけでなく、翌年のモーターショーでのプロデュースも任された。当時、業績不振のBMWを救うには至らなかったが、その2台の車が現在も存在することは喜ばしい。

WORDS: GILES CHAPMAN

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