モータースポーツを芸術として写した人物が当時を振り返る

octane UK




フアン・マヌエル・ファンジオ〈マセラティ250F〉 1958年ランス、フランスGPにて


ランスのヘアピンで撮ったショットだ。私はコーナーの内側にいた。ファンジオは後ろから追いかけてくる奴はいないかと肩越しに振り返ったんだが、この写真では私を見ているように見える。私のそばには2、3人いたから必ずしも私を見ていたとは限らないんだが。それ以上にこの写真は忘れられないものになった。ファンジオにとって最後のレースなんだよ。といって現場にいたわれわれでもこれが最後のレースになるなんて思いもしなかった。当時のマセラティは調子がよくなく、ファンジオがハッピーでなかったことはわかっていた。ピットで彼がチーフメカニックにハンドリングがよくないと不満を漏らしている写真を撮ったからね。彼はいつも笑みを絶やさず機嫌もよかったけれど、このときばかりは違ったんだ。彼は愛すべき人柄でね、英語はしゃべらなかったけれどイタリア語は流ちょうだったから、私はよく「マエストロ、調子はどうですか?」と話しかけたものだよ。


アストン・マーティン、1956年ル・マンにて


ル・マンは写真家にとって宝の山だ。これを撮影したのは日曜の朝で、そぼ降る雨が冷たく、もの悲しい雰囲気に包まれていた。ピットの台に立っているのはジョン・ワイア。目線の先にあるのは消火器だ。1956年は恐ろしいクラッシュ事故の翌年ということから皆、慎重に事を進めたんだ。1955年のそのとき、私はミュルザンヌにいた。救急車がコースを飛ばしていったが私は何が起こったのかわからなかった。遠くに黒い煙が立ち上っているのを見て初めて事の重大さを知った。人の死は切っても切り離せないのがこのスポーツ。最初に取材したメキシコのロードレースでは複数の死亡事故が起きた。中でも忘れられないのが親友ピーター・コリンズが亡くなったときで、私もそのときニュルブルクリンクにいた。奥方ルイーズのことを思うと今でも胸が痛む。慰めの言葉など何の役にも立たない。でも悲しみを乗り越えるには、気持ちを切り換え、前に進まなければならないのだ。


編集翻訳:尾澤英彦 Transcreation:Hidehiko OZAWA Words:Preston Lerner

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