連載:アナログ時代のクルマたち|Vol.28 ACブリストル・ザガート

T. Etoh

ACというブランド名を聞いて恐らく多くの読者が最初に思い浮かべるのは、ACコブラではないだろうか。キャロル・シェルビーによって生み出されたV8エンジンを搭載するこの車は北米市場ではシェルビー・コブラの名を冠して販売されたモデルである。そのベースとなった車こそ、AC Aceであった。

AC Aceの話をする前にACというメーカーの話をしよう。ACの歴史は非常に古く、その誕生は自動車の誕生にほぼ軌を一にする。1902年、後に会社を設立するジョン・ウェラーと当時南ロンドンで商売をしていたウェラーの良き理解者であったジョン・ポートワインが、一連の3輪自動車を生み出した。ウェラーは後に世界初の小型6気筒エンジンを生み出すほどのエンジニアで、彼が作った3輪及び4輪のモデルはとても評判が良かったという。



本格的に自動車と呼べる車は1903年に開催されたクリスタルパレスにおける展覧会で発表されるもので、当時はまだウェラーの名を冠したものであった。システム・パナールのメカニズム、即ちエンジンを車体前方に搭載しリアアクスルを駆動するFR方式のこの車は、しかしながら生産に移行することはなかった。そしてウェラーとポートワインはその代わりとしてより安価で実用性の高い3輪のコンパクトなモデルを生産することにした。このモデルはAuto-Carriersと呼ばれ、好評を博した。この車によって確かな利益を確保したウェラーは、次いで”A.-C. ”Sociableという3輪車を発売。シート後方にカーゴボックスを備えたモデルであった。会社は当時Auto Carriers Ltdという社名になっており、このSociableに初めてACのエンブレムが付くことになったのである。1913年になると初の4輪車10hpを発表。しかし残念なことに第1次大戦の勃発で、この車は数台しか作られなかった。

AC Sociable

第一次大戦後、社名をAC Cars Ltd と改名。しかしその後会社が衰退し、売却されたことでAC不遇の時代が訪れる。第二次大戦後、ACが存続するきっかけとなったのは政府が発注した障害者向けのマイクロカーの生産で、Invacarと呼ばれたそれは1976年まで生産が続いた。そして1953年、レーシングカーデザイナーとして名を馳せたジョン・トジェイロが設計した軽量シャシーにアルミボディを載せたオープン2-シーターのAceが誕生する。その後現在に至るまでAceを除けばいずれも成功したモデルは誕生しておらず、ACは今もAceをベーストしてキャロル・シェルビーが作り上げたコブラの生産を続けている。



さて、そのAC Aceであるが、誕生した1953年には古い2リッターの直6エンジンを搭載していたが、そのパワーはプロトタイプに搭載されたものが85bhpで流石にスポーツカーと呼ぶにはアンダーパワーであった。しかもこのエンジンが誕生したのは1920年代のことだから古さも否めない。そこで、そのアンダーパワーをカバーすべく採用されたのがブリストルの2リッターユニットであった。パワーは一気に120bhpに跳ね上がった。



これより少し前1954年にはクーペボディを持つAC Acecaがデビューする。これによってオープン2シーターのAC AceとクーペボディのAcecaというラインナップが完成するのだが、1958年にAceを購入したスイスのディーラー経営者、Hubert Pattheyは、エリオ・ザガートにこの車のボディ架装を依頼。こうして完成したのがAC ブリストル・ザガートであった。オリジナルのモデルはもちろんオープン2シーターで、完成時にはイギリスのMMP323Lという登録ナンバーをつけており、そのままスイスにデリバリーされたようである。





その後車はスイス在住だったJohn Gretenerに売却された。彼自身この車でスイスのラリーなどに参戦していたが、その後彼はこの車をジョー・シファートに売却。彼の手によっていくつかのイベントに出場後、ロッソビアンコ博物館のピーター・カウスの元にやってきた。ザガートが完成させたボディは完成当初ボディサイドのモールディングがリアエンドまで伸びていたが、今はドアの部分で途切れている。シャシーナンバーはBEX477。現在この車はアメリカ、オレゴン州ポートランドに住むACコレクターであるジム・フェルドマンの元にあるようだ。


文:中村孝仁 写真:T. Etoh

中村孝仁

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