【追悼】マルチェロ・ガンディーニが若者に伝えたい大切なメッセージ|トリノ工科大名誉博士号授与セレモニーでのスピーチを全文掲載

Lectio Magistralis, Marcello Gandini

人生の恩師 マルチェロ・ガンディーニを偲んで…

世界中のクルマ好きを魅了した天才デザイナーが2024年3月13日、永眠した。去る1月12日、トリノ工科大がマルチェロ・ガンディーニに機械工学の名誉博士号を授与したばかり。セレモニーには元気な姿をみせ、学生や関係者を前に講演されたばかりだったというのに。

その内容は私たちスーパーカー好き・クルマ好きはもちろんのこと、前途洋洋なる若い人たち〜特に自動車産業を目指す人たち〜にぜひ読んでほしいものだった。ここに改めてガンディーニ博士の講演全文を掲載し、一人でも多くの人にMG最後のメッセージを伝えたいと思う。

私はスーパーカーブームに出会って人生が決定づけられた。そしてスーパーカーブームとはランボルギーニ・カウンタックブームでもあった。そういう意味では彼の存在なくして私の人生はなかった。結局のところ人は皆、どこかの誰かに刺激をされて人生の行方を決めている。ガンディーニさん、本当にありがとうございました。どうか安らかにお眠りください。合掌。


貴方を勝手に慕うクルマ好き代表 
3月14日、京都にて
自動車ライター 西川 淳

Lectio Magistralis, Marcello Gandini
– Ceremony for the Conferment of the Honorary Degree in Mechanical Engineering – Polytechnic University of Turin



皆さん、こんにちは。

この素晴らしく心のこもった式典にご臨席を賜り、厚く御礼申し上げます。何十年にもわたって何千何万という若者たちが巣立った教育のシンボルともいうべきここトリノ工科大学のような場所は、私が教育を受けた環境とは随分とかけ離れた場所であり、全く異なった思い出へと連れ戻してくれます。

意思をもって進むべき対象に情熱を注ぎこむ


私自身の教育の起源は、多様性を考慮しない家族の伝統の真っ只中にありました。学びの源といえば人であり本であり古典的な学習だったのです。1950年代半ばから60年代初頭にかけてそれは決して珍しいことではありませんでした。

私の父マルコは2つの学位を取得し、オーケストラの指揮者として生計を立てていました。家族の一員として進むべき唯一の未来といえば、公立の高等学校で学び、大学にいくというものでした。当然のことながら私は高等学校に通い、まずはピアノを学ぶことになります。このように古典的で文化的な教育の背景や厳格で保守的な身の回りの環境によるあらかじめ確立されたすべてのパターンの押し付けが私の心に、エンジンやメカニカル、テクノロジー、さらには、デザインやレース、何かしらイノベーティヴなものに対する無条件の情熱を巻き起こすまでさほど時間はかかりませんでした。

そんな私の経験から今日ここに集まった未来の若いエンジニアとデザイナーに伝えたい最初のメッセージは、「限界を設けることなく、強い意思を常にもって、しかも建設的に反抗する精神を養え」、ということです。

高校1年生のときにラテン語の翻訳本を買うために渡されたお金で、ダンテ・ジアコーザの著作『内燃機関』を買いました。貪るように読んで研究し、一語一句を分析したものです。購入後しばらく経って、気づきました。進むべき道はこれなんだ、と。

高校生の終わりごろになると私は決定的に反抗的な少年になっていました。カーデザイナーになりたくて大学への進学を拒否したからです。保守的な私の家族ではありえないことでした。そして当時はというと、両親との約束や期待に添えないのであれば家を出なければならなかったのです。

気がつくと私は友人と暮らしていて、お金もなく、クレイジーなアイデアだけがたくさんありました。ヒルクライム用のレース車両にライトチューンを施したり、時にはボディを改造したりしました。とはいえそれは些細な仕事で、とてもじゃないけれど生計を立てられるレベルではありません。50年代の終わりから60年代の初めにかけて、私は次のことに気づいたのです。生き残るために選択の余地はあまりない、機械工学ではなく他の分野に専念した方が良いだろう、と。

23歳のころに妻のクラウディアと出会いました。このことがその後共になしえた素晴らしい成功と成果のきっかけとなります。私にはクリエイティブな心があった一方で、彼女は常にブレることなく私をサポートしつつ、他社とのコミュニケーション能力に長けていました。彼女がいなければ、その後の私はなかったと言っても過言ではありません。

イタリアにデザイナーという言葉がなかった時代に絵を描き始めました。勉強することができるという意味では建築家かエンジニアになりたいとも思っていましたが、デザインを学ぶという学位コースはありません。その代わりに広告や漫画、家具など、あらゆるものを描き、徐々に腕を磨いていったのです。

小さなコーチビルダー向けに大小の変更を施した自動車の図面を描いたこともありました。仕事として決して満足できるレベルではありませんでしたが、方向性を感じるには十分なものだったのです。

本日ここで私が若い皆さんに伝えたい2番目のメッセージは、何か新しいものを創造したいと思っているのであれば、次のようなことが必要だということです。まず自分の分野で過去にすでに行われていることをすべて、文字通りすべてを知っておかなければなりません。デザインの分野であれば、その過去の作品のみならずイノベーションの歴史全般を知っておいて欲しいのです。レオナルド・ダ・ヴィンチ以降、これは将来のすべてのデザイナーにとって必須の要件だと思います。

授与式が行われたトリノ工科大学にはガンディーニが手掛けたカラフルな車両が展示され、式典に彩りを添えた。(手前列左奥から)マセラティギブリⅡ、マセラティシャマル、ランチアストラトス。ランボルギーニウラッコ、308GTレインボー。(中列左奥から)ランボルギーニディアブロ、カウンタックLP400、ミウラ。(奥の列向かって左から)X1/9、アウトビアンキA112ラナバウト、ランボルギーニエスパーダ、マセラティカムシン、アルファロメオモントリオールが並ぶ。

私たちの昔話に戻りましょう。将来への方向性を感じてからというものの、進むべき道はきれいになり始め、少なくとも険しくなさそうだという程度には見えてきました。決して不可能ではないだろう、と。独学だったので、実物を見なくてもかえって本格的に描けるようになったものです。

どのように描いていたかというと、当時使われていた木枠のキャンバスではなく、部屋の床にトレーシングペーパーを敷いて絵を描いていたのです。徐々に精度を高め、信頼するに足る製図を作成できるようになりました。

モデラーに初めて自分のボディワーク図面を見せたとき、彼は私の描いたシートを壁に掛けながら黙って観察していました。15分くらい経って、彼は首を振りながら、「まるで分からないよ」と言ったのです。

一体何をどう言えばいいのか、どう説明すればいいのか私にもわかりません。そのとき、気づいたことがありました。私の描いた自動車の絵では、フロントが右を向いていたのです。左向きに描くのがどうやら一般的な方法でした。

幸いなことに、その絵はトレーシングペーパーに描かれていました。裏返すと途端にモデラーの目が輝き始めたのです。

彼は褒めてくれました。わかりやすく丁寧で、正確な絵じゃないか、と。

デザイナーとしてのキャリアがスタート


ここから私のデザイナーとしてのキャリアが始まったと言っていいでしょう。ボディワークの仕事をしたり、本を読んで勉強したり、もちろん絵を描くことも欠かしません。

未来的な自動車というものは、極端にすぎることが多いのも事実ですが、独創的で見ていて興味深いものであることも確かです。そんなアイデアをまとめて私自身の作品集を作り、それをヌッチョ・ベルトーネとのミーティングで発表するという機会に恵まれました。

彼はすぐに自分の下で働くよう提案してくれました。数年後、26歳で私はベルトーネのチーフスタイリストにまでなりました。常に自主性を持って仕事に取り組んできた結果とはいえ、それらはすべてヌッチョ・ベルトーネの起業家としての先見の明と勇気のおかげです。彼には感謝しかありません。

無名の26歳の若者が組織の中で自由に行動できることを想像してみてください。今日ではまず難しいことでしょう。ヌッチオは飛び抜けて行動力のあった人です。才能のありかを理解し、何よりもその才能を最大限に発揮できる状態に置くという能力に秀でていたのです。

3番目のメッセージです。たとえ最初は非常に難しくても、あなたに最適な仕事を見つけることを決してあきらめてはいけません。あなたを評価し、あなたの能力や才能を表現するための地位を与えてくれる人をぜひとも探し出して欲しいのです。

この点で私は非常に幸運だったと言わざるを得ません。

カーデザイナーにとっては特別な時代に生きてもいたのです。自動車の分野にはそれまでに経験したことのない数々の力、例えば新しさへの欲求や秘めたエネルギー、未来志向となんでも実現できるのだという信念などが渦巻いていました。そんなことはあの時期以来、ついぞありません。

人類は月に行きました。何か今までとは違う空気が世の中に漂い始め、自動車を含めありとあらゆることに関するほぼすべての行動に何かしら影響を与えたものです。

自動車とは何でしょう?移動手段です。けれども私たちは機械工学における研究と知識の集積した場所にいるので、そこだけに注目したくはありません。

交通手段は他にもたくさんあります。なかでも自動車は個人または家族のような小さなグループへの販売を目的とした工業製品であることは確かです。けれども、もう少し深く探ってみようではありませんか。

自動車領域でデザイナーが果たす役割とは


自動車は普及の容易な工業製品であり、その結果、人々の日常や習慣に影響を与える可能性が大いにあります。ファッション現象を生み出し、トレンドや大衆の好みに基づいて生まれてきます。

ここで私たちは自動車分野におけるデザインとは何なのか、その目的は何なのかを自問してみましょう。それは目標を改良することを前提に導入された設計の要素の一部であり、モデルの成功を担っています。カーデザインは人々が最初に知る新型車広告なのです。つまりは自動車からのコミュニケーションの発露でもあります。



ここまでのすべては的確なたとえかと思いますが、少々理屈っぽいでしょうか。

何がそのモデルを特別なものに仕立て上げているのか。実は先ほど述べたようなこととは何の関係もないことだと私自身は思っています。

自動車とは人類が何千年も抱いてきた夢であり望みです。半分は空飛ぶじゅうたんで、半分は家なのです。瞬時にどこへでも行ける自由を与え、守ってくれるような、魔法のような物体です。人と共に移動するシェルター、空間なのです。それは自由の象徴でもあります。個人の自由の体現です。

私にはそれこそが自動車の本質であり、そこに他の多くの感情的な要素が追加されていくのだと思われてなりません。

自動車というものは洗練され魅力に満ちた大切なものであり、それを所有するという喜びがあります。心の内を表現するひとつの手段でもあります。私の場合には自動車の持つ力学的にロマンチックな側面もまた重要でした。物理的な可能性を心理的に拡張する働きや、スピード、力強さ、完璧さといった不滅の、そして美しき欲求の継続こそが大切なことだったのです。

さらに自動車は、人類が成し遂げたほとんど唯一というべき真の発明によって成立する物体でもあります。それまで自然にはなく人類が発明したもの、それは車輪です。

飛行機は自然の中に模範が存在していました。鳥です。船はどうですか?川に浮かぶ丸太でしょう。エレクトロニクスは神経系です。けれどもホイールだけはそういった先生が自然にはありません。確かに石のように丸いものはありましたし、木の幹で作られた輪っかも転がることならできたでしょう。しかし人々が回転軸を発見し、そこから我々は世界を動かし始めたのです。

西川 淳

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