あのフェラーリ250GTOが初仕事だった人物逝く│カロッツェリア・スカリエッティに残した偉業

Shinichi EKKO

偉大なるオスカー・スカリエッティの訃報が届いた。3月24日午前11時、享年74歳であった。長く病魔と闘いながらも、次世代へもの作りの重要性を知らしめるべく、精力的に行動していた氏の優しい笑顔を思いおこし、私は虚脱感で一杯だった。

フェラーリ500モンディアルをはじめとする、フェラーリ・コンペティションマシンのボディワークを一手に引き受けていたカロッツェリア・スカリエッティ。オスカーの父であるセルジオが1955年に立ち上げ、フェラーリとスカリエッティの関係はさらに深まっていき、1979年にはフェラーリのボディ製作部門として傘下に入った。カロッツェリア・スカリエッティのヒストリーにおいて創始者であるセルジオに脚光が浴びるのが常であったが、彼の息子であったオスカーが果たした役割も実はそれを凌ぐほどに大きい。

14歳からボディ製作の“丁稚”としてスカリエッティにて働きはじめたオスカーだが、彼が一人前となって任された初仕事はフェラーリ250GTOだった。「ジオット・ビッザリーニのアイデアであるフロントの三連ダクトの製作を担当したのです。ちょうどマウロ・フォルギエーリが合流して来た頃のことです」とオスカーは昔を懐かしんで語ってくれたのを思い出す。まもなくフェラーリのピット要員として330P2などと共にル・マンをはじめとするサーキットを転戦した。



プロダクション・モデルの開発においても彼はリーダーシップを発揮した。ディーノ206GTや308GTBにおいて、クオリティ向上と生産台数の拡大のプロジェクトに取り組んだ。「308GTBにおいてはFRPの導入を行いました。当時、イタリアのFRP製造技術はたいへん優れていましたから、量産化の為のいろいろなトライをしました。巷では、生産性向上のために308GTBはFRPからスチールボディへと変更したと言われたりしているようですが、それは正しくありません。メインテナンス上の問題から仕様変更が行われたのです」などと、思わず身を乗り出してしまうような話が彼の口からこぼれ出てくる。



348のモノコックボディ化やロボットによる溶接システムの導入、288GTO、F40などスペチアーレへのケプラーやカーボンファイバーの導入を進めたのもオスカーだ。スカリエッティがフェラーリ傘下となってからはフェラーリの開発部門の一員として、プロダクション・モデル開発の中核に彼は居た。「F50 や612 スカリエッティ、そしてエンツォといった重要なモデル開発に関わることができたことは何より幸せでした」とオスカー。

しかし、彼が関わったのは車だけでなかった。フェラーリの開発部門の一つであるフェラーリ・エンジニアリングのキーパーソンでもあった彼は、そこでトラクターや自転車、はたまた飛行機から宇宙衛星の開発に従事した。そんな素晴らしい頭脳と腕を持ったオスカーであるが、彼は何処までも謙虚だ。「私は中学中退なんです。しかし、この仕事が好きでたまらなかった。ですから仕事で必要なことがあれば、死ぬ気で勉強しました。製図も、英語もそうでした。一生懸命やれば何でもできるということを次の世代へ伝えるのが、今の私の仕事です」オスカーは亡くなる直前まで、乞われて幾つものインタビューを受けていたという。



ちょっとした疑問にも、あらゆる角度から懇切丁寧に答えてくれるのが常だったオスカー。きっと空の上で行われるエンツォ・フェラーリを囲んだフェラーリ同窓会でも、彼は世話役として細かな心配りをしながら、奮闘しているのではないだろうか。


文:越湖信一 , Shinichi EKKO

文:越湖信一

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