フェラーリ250LM|身だしなみの良い悪魔

Photography:Paul Harmer

GTレーシングカーか、あるいはスーパーカーの先駆者か?フェラーリは250LMがロードゴーイングカーであると世間に信じさせたかった。だが疑い深い人たちを納得させることはできなかった…。

ピニンファリーナがデザイン、製作はスカリエッティ

正直に言うならば、すべて予定通りに運んでいたわけではなかった。カメラカーに付き合ったせいで、車もドライバーも大変な苦行を強いられていたのだ。これまでのところ、250LMは不機嫌そのもの、いったい何℃あるのかと思うほど室内は暑く、ペダルはガタガタと踊り回っていた。我々はめまいがするぐらい高い場所を走っていたのだが、それもあまり役に立たず、ドライバーは四方八方からの、あらゆる種類のノイズの集中砲火に耐えている。スロットルを踏み込んだ時だけは、スピードと由緒正しきV12からの轟音が増すにつれて苦痛からの解放感と歓びが一体となって湧き起こるが、それも一瞬のことに過ぎず、すぐにまた居心地の悪さを苛立たしく思い知らされることになる。エルゴノミクスという言葉さえ存在しなかった時代なのだ。古風なスーパーカーとは、まさしくこういうものではないだろうか。

ランボルギーニが「スーパーカー」を発明したというのは大筋で本当のことだろう。実際、この単語は「ミウラ」のために生み出されたものだ。それに対してフェラーリは、多少証言内容に違いがあるとはいえ、結局のところ新しいことに手を出しても得るものは少ないと判断し、手堅く、保守的な365GTB/4、いわゆるデイトナでそれに対抗する。サンターガタ・ボロニェーゼの新参者たちは後に知ることになるのだが、確かに革新的なことへの挑戦は痛い目に遭いやすいものである。

ただし、ご存知のとおり、メディアは同じ土俵に上がろうとしなかったフェラーリの姿勢にたちまち批判を浴びせた。マルチシリンダーをミッドシップしたランボルギーニに伍するフェラーリの新兵器、365GT4BBは1973年になってようやく準備が整ったが、しかしながら、そのころにはランボルギーニはカウンタックとともにさらに先に進んでいた。フェラーリはまたしても時代遅れになっていたのである。

もちろん、別の見方もある。そもそもミッドシップを語るのなら、その2年前にデビューしたATS2500GTを無視して、ミウラを"最初のスーパーカー"と呼ぶのは正しくないという厳格な意見もあるが、それとは別に、フェラーリは既に反撃をしていたではないか、という説である。つまり、ただ単に250LMをロードカーであると考える人がほとんどいなかっただけだというのだ。確かにこれをロードカーだというフェラーリの主張にはかなり無理がある。この車が昔、ユノディエール・ストレートではなく、ラスベガスの大通りを流していたという事実にもかかわらず、疑うべき理由は山ほど並べることができるからだ。

50回の節目を祝う1963年10月のパリサロンでベールを脱いだ250LMは、賞賛と言うよりは好奇心の混じった訝しげな視線を集めたという。ロード&トラック誌のヘンリー・マネイ三世はこうリポートしている。「ATSクーペを半信半疑で眺めながら、ピニンファリーナはル・マン・ウィナーの250Pに蓋を被せたようなボディを作らされたのだろう。LMとはもちろんル・マンのこと、この車は、あの聖なる250GTOの後継者となるべきモデルなのだが…。性能数値は例によって信じられないほどだが、そうではないという理由も見当たらない」

フェラーリによる推定最高速度は180mph(290km/h)以上とされていたが、これまた例によって社外の人間は誰も試すことができなかったのだ。

250LMのエンジンは軽合金製V型12 気筒2953cc(最終的に3286ccに拡大)、テスタロッサ用シリンダーヘッドにドライサンプ式潤滑システム、クロスレシオの5段ギアボックスを採用していた。サスペンションは前後ともにダブルウィッシュボーンとコイル、デザインはお気に入りのピニンファリーナが担当し、スカリエッティがボディを製作した。


編集翻訳:高平高輝 Transcreation: Koki TAKAHIRA 原文翻訳:数賀山まり Translation: Mari SUGAYAMA Words:Richard Heseltine 

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