超レア!唯一無二のブティック・スーパーカー、パンサー・ソロII【前編】

David Roscoe-Rutter

ある男がイギリス発の斬新なスーパーカーを作り上げようと固く心に決めたが、パンサー・ソロIIは、その野心的な目標に届くことはなかった。もっとも、『Octane』UK版のグレン・ワディントンは「この車はもっと評価されるべきだ」と主張する。



90年代の車は全部同じに見える、という論調が一時期流行した。『Car』誌は1990年7月号の表紙で「欧州車のクローン:この行き詰まったデザインに誰が終止符を打つ?」と嘆いていた。だが、この頃こそ、奇抜さと、型破りなスタイル、そして技術の逸脱に満ちていた。バイクエンジン搭載のLCCロケットやストラスキャロンSC-5Aはどうだ? デ・トマソのグアラは? あるいは、今回取り上げるパンサー・ソロIIはどうだろう。1990年に世に出たのはたった12台。だが、その姿を初めて見た時から、各紙は同車を勝者であるともてはやした。

「ジャガー・Eタイプ以来、最も重要なイギリススポーツカーのステアリングを握る」と『Car』誌はタイトルで謳い、「25年ぶりのイギリス最高のエキサイティングな新型スポーツカー」と『Autocar』誌は記事にて絶賛した。

ソロIIは、世界初の市販ミドエンジン4WDカーを謳っていた。アルミとエポキシ樹脂を組み合わせた革新的な複合モノコックボディを採用し、圧倒的な強度と軽量化を両立させていた。いわゆる“流線形”ボディはF1マシンを開発する風洞設備にて磨き上げられ、前後に十分なダウンフォースを生み出す。だが、ソロは当初からこれほど大胆な設計を目指していたわけではない。「II」という名称にヒントがある。パンサー社のオーナーであったヤング・チュル・キムは、ソロをデビューさせる予定の1年前、1987年に大胆な方向転換を余儀なくされたのだった。

パンサー社の倒産と再起


パンサー社は1972年、イギリス・サリー州でロバート・ジャンケルが設立した自動車メーカーである。主に当時の市販車のハードウェアを流用し、レトロスタイルなデザインを纏う車を作っていた。ラインナップは実に個性的でボクスホール車がベースのリマ・ロードスター、より豪華なジャガー車ベースのJ72とデヴィル・リムジン、そして少々クレイジーなリオ。リオは、トライアンフ・ドロマイトのエクステリアデザインに手を加え、アルミボディを纏わせた超高級バージョンだった。わずか2台しか作られなかった6輪のパンサー・シックスは、ツインターボ化したキャデラックのV8エンジンを搭載していて独特の存在感があった。

1980年、ジャンケルの会社は倒産に追い込まれ、韓国のジンド・コーポレーションのキム社長により救済された。キムが描いたビジョンはレトロスタイルとの決別で、未来志向のスポーツカー作りだった。コスト競争力を保つため、既存のハードウェアを流用する戦略だけは踏襲した。パンサー社は、リマをフォードV6エンジン搭載のカリスタへと進化させ、大幅な収益改善に成功。新型車のパワーユニットには、フォード・エスコートXR3iの1.6リッター4気筒エンジンを選んだ。

キムは新しいビジョンを打ち出しただけでなく、レン・ベイリーの起用に成功した。ベイリーはフォードに在籍していたエンジニアでル・マンを制覇したGT40の開発者であり、アラン・マン・レーシングでの経験を経て、様々なレーシングプロジェクトのフリーランサーとして活躍していた男だ。ベイリーがパンサー社のために開発したのは縦置きミドシップ&後輪駆動を念頭に置いた、チュブラースチールフレームだった。

一方、イタリアのデザイナーたちからは「君には払えないよ」と言われたキムは自動車デザインの名門、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートに電話しポートフォーリオを充実させたい学生を探した。一見、突拍子もない作戦に思えるが、何事も挑戦しないと結果は出ない。なんと同校の講師だったケン・グリーンリーが自らのアイディアを提供してきたのだ。そして1984年、アルミボディのパンサー・ソロがバーミンガムのNECで開催されたブリティッシュ・モーターショーでデビューした。生産準備からは程遠かったもの“1万ポンドのスポーツカー”を謳い、フォード・カプリ2.8のようなライバルに比べるとハイテクで希少価値の高い選択肢として注目を集めた。

初代ソロからソロ「II」への進化


だが、ソロが生産に入る遥か前に、キム自身がプロジェクトを葬り去った。原因は、トヨタがMR2を発表したことだった。ソロが狙っていたマーケットを、MR2は見事に突いてきたのだった。英国での販売価格は9,300ポンド。そればかりかMR2にはイギリスでは、ちょっとした付加価値もあった。サスペンション開発を担当したのは、ロータスのロジャー・ベッカーだったのだ。振り返ってみれば、MR2は新しいセグメントを切り開いたに過ぎなかった。だが当時のパンサー社は競合することを嫌い、高級路線へと舵を取った。結果、野心的すぎるものが生まれることに。

1986年初頭に開発がスタートした「ソロII」のプロトタイプは、1987年9月のフランクフルトショーにて姿を現した。同じ会場にフェラーリF40やBMW Z1の姿があったときの話だ。この超短期間の開発スケジュールが示す通り、ソロIIをお披露目したのは時期尚早だった。報道陣が完成車に触れられたのは1989年で、顧客への納車は1990年にまでずれ込んだ。それでも、デビュー時の見出しは熱狂的だった。

初代ソロからソロIIへの進化は、完全な変身と言っていい。アルミパネルを纏うチューブラーシャシーは姿を消し、代わりに採用されたのは画期的な複合構造だった。エポキシ樹脂を用いたアルミハニカムフレームをさらにガラス繊維で補強。非構造部材のボディパネルには、強化ケブラー/カーボン複合材を採用していた。ドアフレーム上部、ダッシュボードまでカーボンファイバーが奢られた。

インテリアは独創的。特注の計器類とフォード製パーツを巧みに配置。

ミドシップレイアウトは健在で、パワーユニットはフォード・シエラRSコスワースの2リッター 16バルブDOHC直4ターボに置き換えられた。204bhpの最高出力はシエラXR4x4由来のファーガソン4WDシステムを介して4輪に伝えられた(フォード自身のコスワース4x4より先行していた)。開発を担当したのは、ラマー・エンジニアリング。1985年、エセックス州ブレントウッド近郊に設立された会社で、フォードの外部プロジェクトを手がけていた。設立者のマルコム・パウェルは、フォードのスペシャル・ビークル・エンジニアリングチームに在籍していた人物。また、チームを率いていたロッド・マンスフィールドも、ラマーの取締役に名を連ねていた。

ミドシップされたコスワース製ターボ4気筒は粗削りながら効果的。

フォードエンジンを縦置きにしたのは、専用部品開発のコストを抑えるためにパウェルが下した決断だった。結果、全長は155.7インチから171インチへと伸びた。だがホイールベースの延長はわずか3.7インチにとどめられた。リアシートも設けられたが「+2」タイプで、子供でさえ窮屈なスペースだったので荷物置き場として使うのが最適だろう。ちなみにパウェルが当初計画していたサイドマウントの左右ラジエーターは、本来ならトランクがあるはずの場所に変更された。

エンジンは縦軸から8度傾けて搭載し、ボーグワーナー製T5マニュアルミッションをエンジン横に配置できた。トランスファーケースはギアボックスにボルトオンされ、ファーガソン方式の遊星歯車列とプロペラシャフトで前後に動力を分配。後輪へは多列チェーンで直接伝達する。ミドシップレイアウトゆえ、トランスファーケース内にはヘリカルギアの逆転機構も必要だった。

キャブフォワードのプロポーションはグループCレーサーにインスパイアされた。

ソロIIの開発には、本格的なバックアップが入った。レーシングカーメーカー、マーチ・エンジニアリングの子会社コムテックだ。最先端の材料技術と自社の風洞設備を、空力開発のために提供した。グリーンリーは、キャブフォワードのグループCレーサーに着想を得ていた。ノーズを極限まで絞り込んだ結果、旧来のポップアップヘッドライトは使えず縦軸回転式のポッド式のものを採用。ヘッドライトを閉じた状態でのソロIIのCd値は0.33を達成していた。また、マーチの空力エンジニア、ティノ・ベリがグリーンリーとともにボディ形状を磨き上げ、全速度域で前後にポジティブなダウンフォースを生み出すことに成功したことは、量産車世界初の快挙であった。

「振り返ってみると、空力性能はソロの最も重要な成果のひとつだった」と、グリーンリーは1994年に『Autocar』誌に語っている。

回転式ヘッドライトポッドは必要性を美徳に変えた工夫。

1988年になっても、ソロIIのフレーム構造の量産における課題解決は続いていた。当初の計画では、コムテックが最初の30台分のボディセットを完成させ、その後はパンサー社が新設する工場で生産を行う予定だった。生産台数は徐々に増やし、最終的には年産600台を目指していた。予想価格は28,000ポンド。ポルシェ944Sよりちょっと高い程度だ。しかし実際には、年産100台まで計画は下方修正。そして、発売価格は911カレラ、944ターボ、エスプリターボの価格帯に近い、39,850ポンドまで跳ね上がってしまった。

151人もの顧客が頭金を支払ったが度重なる遅延で信頼は揺らぎ、注文はキャンセルの嵐。おまけにパンサー社がサリーからエセックスに移転した際、従業員の大半が付いてこなかった。また、この頃、BMW 850iとフェラーリ348がデビューし、ポルシェは52,000ポンドで4WDの911カレラ4を投入していた。そのほか、ホンダの4WSを搭載していたプレリュードが技術オタクを虜にしていた。続く89年には、絶賛を浴びた新型ロータス・エラン(FF)まで登場していた。気づけばパンサー社は1500万ポンドもの開発費を投じたのに、ソロIIの予約は12台まで激減。蓋を開けてみれば、ソロIIはプロトタイプを含めても合計20台程度しか作られていない、と推測されている。

“タラレバ妄想”が大好きな筆者にとって長年、ソロは魅惑の車であった。2000年代初頭に運転したことはあるが、現存するソロのほとんどがコレクションに埋もれ、めったに公道で見かけることはない。万が一の際、修理が困難だというリスクが影響しているのかもしれない。また、ソロの類まれな希少性と、上昇し続けるであろう価値も考慮すべきだろう。


・・・【後編】に続く


編集翻訳:古賀貴司(自動車王国) Transcreation: Takashi KOGA (carkingdom)
Words: Glen Waddington Photography: David Roscoe-Rutter

古賀貴司(自動車王国)

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