連載:アナログ時代のクルマたち|Vol.4 アルファロメオ・ティーポ33ストラダーレ

T. Etoh

アルファロメオ・ティーポ33ストラダーレの母体がアルファロメオ・ティーポ33/2のエンジン及びシャシーコンポーネンツであることは周知の事実であるが、ストラダーレにはロードカーとするためにいくつかの変更が与えられている。

ひとつはエンジンで、ストラダーレのプロトタイプこそ、33/2と同じ270hpの2リッターV8エンジンが搭載されているといわれていたが、やはり扱い易さを優先したのか、生産型のそのパワーは230hpに引き下げられていた。そしてもう一つはシャシーである。こちらはオリジナルのものよりも10cmホイールベースが延長されていた。ティーポ33/2はそのプロジェクトが1964年にスタートし、ニックネーム”ペリスコピカ”のレーシングカーが完成したのは1967年のことであった。その年からレースに参戦するのだが、アウトデルタとしては少しでもその開発費用を捻出しようと考えても不思議ではなく、それがこれをベースとしたロードバーションの開発であったのだろう。



基本的なメカニカルコンポーネンツはアウトデルタのカルロ・キティの手元にあった。だが、足りないものがひとつだけあった。それがボディである。当時カロッツェリアはどこも多忙を極めていたとされていて、請負先が見つからない。探し当てたのがフリーランスで仕事をしていたフランコ・スカリオーネである。アルファとの縁も深かったことからキティの申し出を快諾したようで、1年間にわたりトリノの自宅からミラノのアウトデルタまで毎日のように通っていたという。一方で多くのカロッツェリアが多忙を極めていたということは、もう一つの問題も生んだ。それはデザインが決まったとしてそれをどこが作るかという点である。そこで目を付けたのが1967年に誕生した新興カロッツェリア、マラッツィであった。マラッツィはカルロ・マラッツィが息子のセラフィーノおよびマリオと共に興したもので、従業員の多くは会社が清算されたカロッツエリア・トゥーリングから移籍した者だった。こうしてデザイナーと製造会社という最後のピースが組みあがったことで、33ストラダーレが日の目を見ることになったのである。



カルロ・キティとアルファロメオの思惑では50台のストラダーレを生産する予定だったが、ことはすんなりと進まず、1967年から69年までに生産されたシャシーは18台にとどまったという。実はこの数字がそのまま33ストラダーレの生産台数としているところが多いようだが、現実はもっと少ない。

量産(と言ってもたった50台の予定だったが)に際して2台のプロトタイプが作られたようである。そしてここからは正しいドキュメントが存在しないので話はややこしくなるが、おおよそ正しいと思われるその歴史を紐解いてみると、登場したのは1967年のトリノショー。実は同じ年にフェラーリはディーノ206GTを同じトリノショーに投入している。アルファロメオはこのディーノの対抗馬として33ストラダーレを想定していたようで、パフォーマンスでも圧倒したV8エンジン搭載ということもあって、アルファの経営陣はストラダーレの成功をかなり楽観視していたところもあったようである。



ところがいいものを作れば売れるという単純な法則は成り立たない。33ストラダーレにつけられた正札は975万リラ(アルファロメオ・クォーレ・スポルティーヴォという本によれば950万リラ)。1年早くデビューしていたランボルギーニ・ミウラでさえ、700万リラ台だった新車価格である。ましてライバルのディーノと比べたら倍以上の価格が付けられていたのだ。おまけにほとんどレーシングカー並みの快適性(と言えるかどうか)しか持ち合わせていなかったから、ロードカーとして購入しようという富裕層が限られたのは当たり前である。





アウトデルタは33ストラダーレに750.33.XXXというシャシーナンバーを与えていた。これに対しプロトタイプは750.33.01のナンバーが付いていて、さらにとあるサイトによれば105.33.12のナンバーを持つ2番目のプロトタイプがあるとされているが、シャシーナンバーが105で始まる点からして、当然ながら105系アルファのシャシーが使われていることは想像に難くなく、実はこれ、アルファロメオ自体が70年代初頭に作り上げたレプリカで現在もアルファロメオ・チェントロストリコが保有しているといわれている。

そして量産1号車のシャシーナンバーは750.33.101で、その後750.33.118まで存在していることが18台作られたという証左なのだが、このうち下3桁が 108、 109、115、116、117 についてはカロッツェリア・マラッツィにはいかず、有名どころのカロッツェリア、即ちベルトーネ、ピニンファリーナ、そしてイタルデザインに行った。108はピニンファリーナに行きクネオとしてデビュー。ピニンファリーナのもう1台は1969年の33/2クーペスペチアーレでこちらが115。109はベルトーネがカラーボを作り上げ、ベルトーネは他に1976年になってナヴァホを117ベースで作り上げている。そしてイタルデザインはイグアナを1969年に116ベースで完成させた。この5台分のシャシーはストラダーレになっていない。さらに110、112、118は生産されなかったのではないかと言われている。というわけで18台中8台は消えた。そして114は購入したオーナーがレーシングカーに改造してしまったようで既に存在しない。というわけでまだ消せていないモデルもあるようだが、一説では実際に世に出回った33ストラダーレは8台しかなかったのではないかともいわれている。



2015年のデトロイトショーに出品された、ティーポ33ストラダーレのウッドモデル。もしこの形で実際に販売されたら、これほどまで注目を浴びる車にはならなかったかもしれない。

間違いなく顧客にデリバリーされた初期のオーナーにはアメリカのアマチュアレーシングドライバーだったヘンリー・ウェッセルス3世やドイツのレーシングドライバー、アントン・フィッシュハーバー、さらにはイタリアのコラード・アグスタ伯爵などが含まれていたようである。また、33ストラダーレは1969年に封切られた映画、邦題「さらば恋の日」にも登場していた。因みにロッソビアンコ・コレクションにあったモデルはアントン・フィッシュハーバーが所有していた初期の生産モデルである。



文:中村孝仁 写真:T. Etoh

文:中村孝仁 写真:T. Etoh

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