名ドライバー、デレック・ベルが語るポルシェで挑んだ70年代のレースの思い出

THE REVS INSTITUTE / ERIC DELLA FAILLE

『Octane UK』に寄稿するデレック・ベルは、917のレースに最初に参加した一人で、自身の本を出版するにあたって過去のエピソードを語ってくれた(取材は2018年の出版当時)。これは彼が語った素晴らしいシーズンに関するハイライトである。



ブエノスアイレス1000キロメートル
1971年1月10日

1971年の国際マニュファクチャラーズ選手権開幕戦では、ベルとチームメイトのジョー・シファートがJWオートモーティブでワンツーを飾ったが、祝福の雰囲気は感じられなかったという。

「アルゼンチンに行くまで、917にはほとんど乗ったことがなかったんだ。私は“セッピ”とペアを組み、彼がプラクティスのほとんどを担当し、ジャッキー・オリバーとペドロ・ロドリゲスが兄弟車に乗っていた。彼らはポールポジションを獲得し、私たちはアルトゥーロ・メルザリオとイグナツィオ・ジュンティのフェラーリ312PBに引き離されて3番手だったよ」

「序盤は混戦模様だったけど、ジャン・ピエール・ベルトワーズのマトラがピット手前で燃料切れ。マーシャルが必死にイエローフラッグを振っていたのだけれど、ジュンティのフェラーリは、タイミング悪くマイク・パークスの車に並ばれ、ベルトワーズの車にぶつかり、道路にバウンドして炎上してしまった。ベルトワーズを救出するのに2分かかり、その時点で彼は亡くなってしまった。レースは大混乱だったよ。正直なところ、すぐにでも家に帰りたかったね」



デイトナ24時間レース(メイン写真)
1971年1月30日~31日

「レースそのものよりも、そこで初めてテストをしたことをよく覚えている。それまでバンクを走ったことがなかったから、何が起こるかわからなかった。トンネルを抜けてオーバルエリアに入ったときは、誰もいなかったけど、すごい雰囲気だったね。その日は晴れた朝で、私とジョーはそれぞれ917に乗っていたのだけれど、初めて彼を追い越したのをよく覚えているよ。ノーズはなんとかねじ込んだけど、リアを処理するのに苦労した。なんてこったという感じだったよ。まあでも、すぐに慣れたさ」

「バックストレートで時速220km出すんだ。ジョーとペドロは、どこを飛ばして、どこで止めるか、いつも言い争っていた。私はできる限りのベストを尽くしていたよ。ジョーは車で生活しているといっても過言ではないくらい車と過ごしていたから、事前にあまり走らなかったし、正直言って、バックストレート後のバンクをフラットアウトで走ったこともなかったと思うんだ」

「オリバーとロドリゲスのマシンは、フェラーリに無理をさせるためのウサギのようなものだった。しかしセッピのドライブで序盤にエンジンの寿命が尽きて、ペドロ達が優勝ししまった。エンジンがオーバーレブに耐えられず、8100rpmでは問題なかったのに、8200rpmでブロー…」



セブリング12時間レース
1971年3月20日

「セブリングは古い飛行場のようなサーキットで、目がかすむほどのバンプがある。人間にもマシンにもタフな場所だ。プラクティスでは、ワークス・フェラーリ312PBのマリオ・アンドレッティの目の前で、車のサスペンションが壊れて私はコース外に吹き飛ばされた」

「スタート前にシートタイムはあまりなかったんだ。セッピが練習走行でギリギリまで長く車に乗っていて、新人の私がドライブするのは彼が降りたあと。自分の立場はわかっていたけど、悔しかった」

「セッピは、序盤の走行でマーク・ドノヒューとバトルになった。ペンスキー・フェラーリ512Mを駆るマークは、燃料ストップ前の時点ではトップに立っていた。しかし、ピットシグナルが出ず、コース上に停まってしまった。そこで観客のバイクの後ろに乗ってピットまで戻ったのだが、これが良くなかった。その後、再び走り出したものの、外部からのアシストを受けたとして4分のペナルティを課された。その後3位まで挽回したものの、ペナルティが響いて5位に。結果的にマルティニ917のヴィック・エルフォードとジェラール・ラルースの優勝に終わった」



BOACブランズハッチ1000Kms
1971年4月4日

Porsche AG

「このレースで、アルファロメオは1951年以来の世界選手権優勝を果たした。917にとって、このレースはあまり意味のないものだったよ。セッピは車のセットアップが得意ではなかったけれど、プラクティスの間は外出していたので、私は見向きもされなかった。でも、雨が弱くなったこともあって、中盤まではリードしていたんだ。ルーティンストップでピットインしたときにホイールナットが詰まってしまい、その修理で数分ロスしてしまった。アルファ・ティーポ33やフェラーリ312PB(ジャッキー・イクス/クレイ・レガツォーニ組)は燃費がよかったから、僕らよりピットストップの回数が少なくて済んだんだ」

「917Kはグループ5の車なので、スペアホイールの搭載が義務づけられていたんだけど、それが外れて飛んでいって、黒旗になったんだ。スペースセーバーのスペアホイールがなかったので、通常のホイールを探してタイヤの空気を抜き、それをはめ込むことで再スタートが許された。これによって5位に後退したが、デ・アダミッチ/ペスカロロ・アルファ、イクス/レガツォーニ・フェラーリに続く3位まで浮上した。クラス優勝は嬉しくなかったといえば嘘になるが、私にとっての本当の勝利というは、誰よりも早くフィニッシュラインを通過することなのだ」



モンツァ1000キロメートル
1971年4月25日

モンツァはベルのキャリアにおいて重要な場所であり、1968年には初めてフェラーリのグランプリのポイント獲得に貢献した場所でもある。初の耐久レースで、ベルは表彰台に上ったものの、トップにはなれなかった。

「事前にシュトゥットガルトに行っていたから、イタリアにはポルシェ914/6で行ったんだ。Tカーでプラクティス6位、セカンドセッションで最速を記録したよ。このレースでは、垂直尾翼を持つ少し長いテールの車を用意したが、JWAの車もかなり速かった。セミワークスのポルシェ・ザルツブルグやマルティニよりも速かったんだ。12周目のアスカリカーブで、アルトゥーロ・メルザリオのフェラーリがウィリー・マイヤーのポルシェ907に引っかかった。このとき、イクスとレガツォーニのファクトリーフェラーリを含む数台のクルマがスピンしてリタイアとなってしまったんだ」

「ペドロとセッピが前を走ることになったが、ジョーは車のフロントガラスのオイルを落とすためにピットインという賢明な判断を取った。でもペドロは視界の悪さにも気づかず、スピードを緩めることなく走り続けた。そして、ジャッキー・オリバーとともに勝利を手にしたんだ。オイルの問題のほかにも、我々の車はパンクをしたり、いくつか問題があったよ。それでも、3周遅れで2位で帰ってきたんだ」



スパ・フランコルシャン1000Km
1971年5月9日

Porsche AG

「悔しいレースだったし、勝つべきレースだった。チーム“ナンバー2”」(オリバーと私)はプラクティス2日目まで出走していなかったが、私は2位のペドロに2秒差をつけてポルシェをポールポジションに据えることができた。このレースのためにショートテールのコンフィギュレーションに戻し、私はスパで917Kをドライブすることに喜びを感じていた」

「レースはまずジョーのドライブでスタートし、ペドロとラップレコードを競い合うように走った。ペドロと交代したジャッキー・オリバーよりも、私の方が速かったんだ。しか、チーム・マネージャーのデビッド・ヨークが "EZ “のサインを出したので、そこで待機することになった。この日のメモを見ると、感嘆符がたくさんついているので、私はちょっとムッとしていたのだろう。ジョーがウォールの上に座って、オリバーにジャンプするよう促していたのを覚えている。でも、チームの命令はチームの命令…」

「なぜ私が待機するように指示されたのか、ずっと不思議に思っていた。本当に腹立たしいのは、ジャッキーが私に威張ることだ。今でも “スパでお前を倒した時のことを覚えてるか?"って言うんだ。覚えているよ......」



ニュルブルクリンク1000キロメートル
1971年5月30日

多くのレーシングドライバーは、自身にとって「アンラッキー」なサーキットがあることを認めており、理由は分からなくても、どうにもうまくいかないサーキットがあるのは事実だ。ベルも同じだった。

「ニュルブルクリンクは、私にとって『アンラッキー』以外の何物でもなかった。何度も走ったし、レースもリードしたけど、勝てなかった」

「このレースでは、怒りのあまり1周もできなかったよ。917Kより丈夫だろうと、大きな燃料タンクを積んだ908/3で臨んだ。ジョーは7周しか走れず、ピットに向かった。シャーシはバナナのように曲がっていた。車のアンダートレイは壊れ、リアサスペンションもダメになっていた。ジョーはその後、オリバーに代わって兄弟車のペドロと一緒に走り、ラルース/エルフォード908/3に次ぐ2位でフィニッシュした。私にとっていい思い出の残るレースではなかったのは間違いない」



ル・マン24時間レース
1971年6月12日~13日

Porsche AG

「ロニー・ピーターソンとフェラーリ512Sをシェアして、1970年に初めて24時間レースに参加したんだ。誰も私たちのことを気にかけてはくれなかった。指示もなかったし、序盤でリタイアしてしまったから、特に大きな話題にもならなかった。しかし、我々本気で挑んでいたし、すべてが真剣そのものだった。私たちは、ロングテールのボディワークを持つ917を使用していた。ドライブフィーリングは素晴らしく、プラクティスでは4番手のタイムを記録した」

「しかし、第2ラウンドのピットストップの後、ジョーと私はリードしていたのだが、マシンは電気系統の問題で止まってしまった。その修理に1時間以上かかり、午前2時から午前5時までひたすら走り続けて、なんとか2位に返り咲こうとしたのを覚えている。917が8200rpmで走っていたとき、私はミュルザンヌ・ストレートで246mphを出したんだ。今となっては別世界の話だが、1980年代後半にシケインが設置されるまでは、そのような速度域に達することが可能だったのだ。思い出すだけで鳥肌が立つ…」

「しかし残念ながら、我々のレースではなかった。メインオイルギャラリーのプラグが漏れ始め、日曜の朝8時にはリタイアしてしまった」

Porsche AG



エスタライヒリング1000キロメートル
1971年6月27日

Porsche AG

「このサーキットは好きじゃなかった。近くにあったツェルトベグの旧コースよりは良くなっているが、私にはなじまないサーキットだった。その他にもいろいろな理由で、私にとってはあまりいいレースじゃなかった。練習走行ではセッピを追い出すことができず、ほとんど917Kを走らせることができなかった。最後の15分間に何とか走れたくらいだった」

「レースでは、ジョーは4番グリッドから不本意なスタートを切った。彼はギアチェンジを失敗して、半分くらいの集団に飲み込まれてしまった。しかし、クラッチがすり減る前にイクス/レガツォーニ組のフェラーリに続く2位まで挽回することができた」

「ペドロは、ジャッキー・オリバーの後任としてリチャード・アットウッドと並んで勝利を収めた。車のバッテリー交換のために停車した後、7位からトップまで追い上げてきたんだ。ペドロの心を揺さぶるドライブだった」

「その2週間後、ノリスリンクで行われたインターセリーのレースでペドロが亡くなり、チームには大きな衝撃が走った。当時のモーターレーシングがいかに危険なものであったかは、今でこそ語り草になっているが、本当に危険だったと今も改めて思うよ。葬式にもたくさん行ったからね」



ワトキンス・グレン6時間レース
1971年7月24日

「終了まで6時間を前にして、ギス・ファン・レネップがチームに加わり、かなりの回数椅子取りゲームが行われた。彼はジョーと組んだが、私はリチャード・アトウッドと組んだ。グレンでのドライビングはいつも楽しいが、今回もまた、もっといいレースができるはずだった」

「ペンスキーのフェラーリ512Mは、マーク・ドノヒューが序盤にペースを上げたが、この車はいつも速いが勝てないという印象だったので、それほど心配はしていなかった。そして僕らの車もパンクしやすいことがわかったので、イクスとレガツォーニのフェラーリ312Pの後ろに下がったんだ」

「2台のフェラーリを追いかけることによってファステストラップが誕生し、その後、コースレイアウトが変更されたため、このレコードは現在も保持されている。ところが調子がいいのをずっと保っていられるわけもなく、スロットルケーブルが切れてしまい、サーキットで立ち往生してしまった。なんとかピットに戻って修理することができたのでよかったが、なんとこれがレース開始1時間以内の出来事だった」

「そして、3位を走っていたマルティニ917のヴィック・エルフォードが、スキップ・バーバーのローラと接触してリタイアした。そのため、我々は優勝したアンドレア・デ・アダミッチ/ロニー・ピーターソンのアルファ、ジョウとギズの917に次ぐ3位に昇格したのだった」



ワトキンス・グレンCan-Am
1971年7月25日

「ジョン・ワイアーは、ヴァン・レネップ、アットウッド、私のために3台の917Kを用意し、シファートはヴァセック・ポラックの917/10に乗っていた。プラクティスでは8番手だったが、レースそのものは苦戦を強いられると思っていた。しかし優勝争いには加わっていなくても、憧れのサーキットで走れるというのは素晴らしい機会だった」

「スタートはまずまずで、ジョー、そしてペンスキー・フェラーリのマーク・ドノヒューを引き離すことができた。5番手につけて、そこそこのペースで走っていたが、中間地点でオーバーヒートしてしまった。しかしその後は11位まで挽回した。ジョーは、ピーター・レブソンとデニー・ハルムのマクラーレンに次ぐ3位だった」

「数カ月後、ブランズハッチで行われた世界選手権のビクトリーレースで、ジョーは事故で亡くなってしまった。それを聞いて、私は胃が痛くなった。私はジョーのことを尊敬していたし、一緒にレースをしている時間を楽しんでいた。彼はとてもいいドライバーで、いいやつだった。リスクは承知していたが、だからといって落ち着いてはいられなかった。彼を失ったことは、今でも痛手だ」


Words: Richard Heseltine


この特集記事と写真は、デレック・ベルとリチャード・ヘゼルタインの共著『Derek Bell: All My Porsche Races』を元に構成しています。
『Derek Bell: All My Porsche Races』(Porter Press刊、45ポンド)

オクタン日本版編集部

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