「B級映画の帝王」ロジャー・コーマン監督が語るカー・ムービー

MG TD に乗る、最近のコーマン。この MG TD は、コロナ禍の最中に夫人と娘さんがレストアした。

ロジャー・コーマン監督にマイク・ルノーが話を聞いた。80年間にわたるキャリアの中で制作したカー・ムービーについて語ってくれた。



1台のTDから


「オックスフォードの大学院で学んでいた頃に、英国で真新しい MGTDを購入したんです。とても格好よくって、私が小型スポーツカーの世界に足を踏み入れる案内役になってくれた1台でした。あの車では、ヨーロッパ中を回ってね。どこまでも頼りになるし、今まで手に入れた中でも最高の車だった。結局は売ってしまいましたがね。アメリカ車は巨大だったから、路上に出ると自分たちは小人のようになってしまう。もしぶつけられたりしたら、怪我をすると思ったんですよ」

96歳にして活力あふれるコーマン。

ご賢察のとおり、ロジャー・コーマン監督は長年にわたるカー・エンスージアストだ。 1926年に米国ミシガン州で生まれ、1954年から映画界に携わっている。興行成功を収めた代表作には、ブラック・コメディ作品の『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ( TheLittle Shop of Horrors)』〈1960年・米国〉、エドガー・アラン・ポーの小説を題材としたシリーズ作品のひとつ『恐怖の振子(The Pit and the Pendulum)』〈1961年・米国〉、サイケデリックな作風で、ジャック・ニコルソンが脚本を担当し、ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、ブルース・ダーンらが出演した『白昼の幻想(The Trip)』〈1967年・米国〉などが挙げられるだろう。

絶妙な車のキャスティング


コーマンの作品を巡る映画人には、フランシス・フォード・コッポラからマーティン・スコセッシに至るまで、映画界の大物があふれている。そして、数々の名車も登場する。氏の監督作品『ワイルド・エンジェル(The Wild Angels)』〈1966年・米国〉では、実在するバイカー集団「ヘルズ・エンジェルス」がエキストラや制作クルーとして雇用されており、この作品はバイク映画の流行に火をつけることになった。その勢いは『イージー・ライダー(Easy Rider)』〈1969年・米国・監督デニス・ホッパー〉で頂点を極めたと言えよう。

また、『ワイルド・エンジェル』の作中で、俳優ピーター・フォンダが語るアイコン的なモノローグ「We wanna be free("俺たちは自由になりたい"の意)」は、ロック・バンドのプライマル・スクリームによるシューゲイザー系楽曲『アイム・ルージング・モア・ザン・アイル・エヴァー・ハヴ』を、1990年にアンドリュー・ウェザオールがリミックスした際にも再利用され、人気を集めている。

『デス・レース2000年(Death Race2000)』〈1975年・米国〉で、車上からドライバーを脅すシーンを演じるシルベスター・スタローン(ALAMY)

コーマンは後に『デス・レース2000年(Death Race2000)』〈1975年・米国〉をプロデュースし、その翌年には『爆走!キャノンボール(Cannonball)』〈1976年・米国〉にカメオ出演もしているが、世界中の車好きからカルト・クラシック作品として注目を集めているのは、1954年にリリースされた氏の最初期の作品だろう。この作品により、プロデューサーを務めたコーマンには、当時、新作 3本分の契約がもたらされたという。さらに2001年にはユニバーサル・ピクチャーズが作品タイトルのライセンスを取得し、『ワイルド・スピード(Fast &Furious)』シリーズとしてメディア・フランチャイズ展開を開始した。現時点では9本のメイン作品と2本の短編作品を中心とする、強力なシリーズになっている。

『速き者、激しき者(The Fast and the Furious)』〈1954年・米国〉の 1シーン。

では、コーマンはどんな着想から映画『速き者、激しき者(The Fast and the Furious)』〈1954年・米国〉を制作したのだろうか。「私は常にレースに興味を惹かれてきました。スポーツカーのレースは、カリフォルニアで始まったんです。当時、長距離レースに挑む女性の話を考えついたところに、実際にレースに出ている白いジャガーXK120を見つけてね。数々のレース状況を撮影した挙句、シーズン後にはその車を購入してしまい、そのジャガーはしばらくの間、私の愛車でした」

「それから随分たって、(映画プロデューサーの)ニール・モリッツが、ストリート・レースを主題にした車映画を制作しました。でも、彼は作品のタイトルが気に入らなかったんだ。ちなみに、彼のお父さんは、私がアメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ社で活動していた頃に、宣伝の責任者を務めていた人物でね。その父親がニールに、『ロジャーが昔に創った映画のタイトルは"The Fast and the Furious"だった』と話したんです。それでニールから私に電話がきて、『そのタイトルを使わせてもらえないだろうか』という話でね。私には少々の金額を支払ってくれましたが、その後、彼らはあのタイトルで大儲けの成果を挙げた。あんなに成功するとわかっていればねぇ…」

同タイトルを冠した元祖の作品であった『速き者、激しき者(The Fast and the Furious)』を制作した際には、コーマンはストーリーを執筆した上に、初プロデュース作『海底からの怪物(Monster from the Ocean Floor)』〈1954年・米国〉で得た氏自身の収入から、6万ドルを制作費として拠出したという。さらに、氏はスタント・ドライバーの役割までこなしている。「SAG(映画俳優組合)が定めた報酬を支払って2、3人は雇っていましたが、危険な運転シーンには、さらに高い報酬を要求されるんですよ。彼らが言うには、必要とされる撮影シーンはきわめて危険な内容だから、2倍の報酬が必要だとのことでね。『そこまでは払えない。だったらヘルメットを寄こしてくれ。自分で運転しようじゃないか』と思ったんです」

「そんなわけで、私はライバル役の車を運転することになって、サーキット内のあるコーナーまで車を進めました。ところが、そのコーナーでは、(主演俳優の)ジョン・アイアランドの車として撮影していた白いジャガーが私を追い越すはずだったのに、ちっとも追い越してこない。結局、レースは私が勝ってしまった。スタント俳優たちは口々に、『何を撮っているかも忘れて、勝っちゃったね』と、私に言ってきてね。だから私は、こう返したんです。『私は普通のスピードで運転しただけだ。もっと速く運転するように伝えてくれ。スタント・ドライバーは彼であって、私じゃない!』」

編集翻訳:伊東和彦(Mobi-curators Labo.) 原文翻訳:フルパッケージ

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