ウクライナ貴族、アレクシス・デ・サクノフスキーの波乱の生涯|流線型デザインをアメリカに広めた立役者

エルバート・J・ホール大佐(左)とデ・サクノフスキー。中央は、ドゥラントをベースにしたドゥヴォー6-75で、彼のデザインを元にヘイズ・ボディ社が製造。ホールはチーフエンジニアだった。(Images: CREATIVE COMMONS)

アレクシス・ウラディミロヴィッチ・デ・サクノフスキーは、ヨーロッパで名声を上げ、アメリカで富を築いた。その言葉を借りれば、デザインによる「スピードの幻想」―つまり流線型―を、先頭に立ってアメリカに広めた立役者だ。レイモンド・ローウィ、ノーマン・ベル・ゲデス、ウォルター・ドーウィン・ティーグなど、1930年代のアメリカでは、新しいタイプの工業デザイナーが活躍した。デ・サクノフスキーもそのひとりで、冷蔵庫であれ腕時計であれ、その名が付けば売上が伸びた。

デ・サクノフスキーが最も情熱を傾けたのはカーデザインだが、50年におよぶキャリアの中で手がけたジャンルは幅広い。ある記事によれば、「朝食から就寝まで賄えるほど多くの製品」が「アレクシス・サクノフスキー伯爵デザイン」を謳い文句にしていた。ケルビネーターの冷蔵庫から、シュウィンやマーキュリーの自転車、グリュエンのカーベックス(曰く「アメリカで最も衝撃的な腕時計」)、クックキングの鍋やフライパン、エマーソンのラジオ、果てはパイオニア・サスペンダーのクリップにまでおよぶ。

特に注目に値するのが、ダリの絵画から抜け出してきたような、曲線で構成された連結式のビール運搬トラックである。カナダのビールメーカー、ラバットのために数種類が造られた。当時アルコールの宣伝が禁止されていたカナダで“走る広告塔”となり、1950年代まで国中にビールを届けた。

アレクシス・デ・サクノフスキーは、1901年に、ウクライナのキーウで生まれた。父のプリンス・ウラジミル・サクノフスキーはロシア皇帝の個人顧問で、アレクシスは贅を極めた環境で育った。しかし、ロシア革命が起きると、皇帝とその家族は1918年に殺害され、アレクシスの父は自殺した。ロシアは内戦に突入し、アレクシスもボルシェヴィキに対抗する白軍に加わったが、敗北に終わる。アレクシスは、たった1000ルーブルとダイヤモンドの指輪1個を持ってロシアを逃れ、まず母方の伯母を頼ってマルセイユに身を寄せた。その後、スイスでエンジニアリングを学び、次に、ブリュッセルの美術工芸学校に2年通った。

アレクシスはパリでファッション画を売り込もうとしたが、最終的に職を得た先は、ブリュッセルのコーチビルダー、ヴァンデンプラのデザインスタジオだった。1924年のクリスマスの2日後には、弱冠23歳で主任アートディレクターに抜擢される。それから5年間、エレガントなデザインを次々に生み出して、様々なヨーロッパ高級メーカーのシャシーに架装し、5年連続でモンテカルロ・コンクール・デレガンスの1等賞を勝ち取った。

アメリカの業界紙に寄稿したことをきっかけに、アレクシスはアメリカでも注目され、1929年にゼネラルモーターズから短期契約をオファーされた。GMには、偉大なるハーリー・アール率いるアート&カラー部門ができたばかりだった。しかし、6カ月の試用期間では短すぎると考えたアレクシスは、ミシガン州グランドラピッズのヘイズ・ボディ社からのオファーを受けることにした。ヘイズは、多くのアメリカメーカーから標準仕様のボディ製造を請け負っていた会社で、新しいスターデザイナーによるボディを「Alsac」と名付けて宣伝した(「Al」はアレクシスから、「sac」はサクノフスキーから。「k」を「c」に変えた理由は不明)。

アレクシスは、自ら使うため、コードL29のシャシーを使ったショーカーの製造をヘイズに提案した。これをヨーロッパに運び、コンクールの最終ラウンドに出品すると、車高の低いコードは、モンテカルロで5回目の栄冠をアレクシスにもたらした。この1台は、のちにカーデザイナーのブルックス・スティーヴンスが50年以上所有し、2012年のオークションでは242万ドルで落札された。アレクシスが手がけたのは高級でエキゾチックなモデルだけではない。アメリカン・オースティン改めアメリカン・バンタムの小型車のボディワークもデザインしている。

1933年に、ハースト・コーポレーションが『エスクァイア』誌を創刊して一世を風靡した。アレクシスは、「流線型の」テクニカルイラストレーションを寄稿し、無期限の「技術・ファッション担当編集者」に任命された。ある記事には、「長身ですらりとしたスラヴのアレクシス・デ・スクノフスキー伯爵」と紹介されている。

アレクシスは、ベルギーで働いていたときに最初の妻と結婚し、1929年に共にアメリカに移住した。1935年に2人目と、1941年に3人目と結婚。その頃には有名人になっていたので、離婚騒動は大きく報道された。アレクシスは、新聞の個人広告欄で“気の合う話し相手”を求め、これに応じた相手への手紙が、投函する前に妻に見つかってしまったのだ。ある記事は、新しい恋人を「流線型のブロンド」と伝える一方で、妻には手厳しく、「流線型の旗手アレクシス伯爵、非流線型の愛に悩まされる」という見出しだった。妻は多額の慰謝料を手に入れて離婚した。

第二次世界大戦が始まると、アレクシスはマルチリンガルの能力を買われて、空軍の主任諜報員としてモスクワに派遣され、アメリカ大使エイヴラル・ハリマンの通訳を務めた。階級は中佐だった。その後、デザイナーとしてのキャリアは下降線をたどる。1952年に、革新的なリアエンジンのスポーツカーを手がけたのが最後期の車のプロジェクトだ。トーピードで有名なプレストン・タッカーが構想し、既製のコンポーネントで安く製造する計画だった。悲しいかな、タッカーは手元に資金が届く前にこの世を去り、プロジェクトも立ち消えとなった。一線を退いたデ・サクノフスキーは、ジョージア州アトランタで以前ほど“流線型”ではない日々を送り、そこで1964年に亡くなった。

翻訳:木下 恵 Translation: Megumi KINOSHITA
Words: Delwyn Mallett

オクタン日本版編集部

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