当時の開発陣に聞く、名車メルセデス・ベンツSL 50年間の軌跡【前編】

Marco Nagel

メルセデスSLはラグジュアリーコンバーチブルの代名詞である。なかでもR107シリーズは最もロングセラーでベストセラーモデルだった。昨年50周年を迎えた名車のすべてを振り返る。



16歳のとき、私は恋に落ちた。自動車雑誌にフェラーリ308やジャガーXJと一緒に掲載されていたR107メルセデス・ベンツSLに、だ。

いつかは自分のものにする。そう心に決めてから14年の月日が経った30歳の誕生日、私はついにR107を手に入れた。さらに21年が経ち、10万kmを刻んだSLは未だ手元で健在だ。そして昨年、2021年にはR107SLの生誕50周年を共に祝うことができた。

長寿だったR107


そうした背景ゆえに、R107について“公平を期してリポートする”などというミッションは、私にはできそうにない。この車がメルセデス史の数ある乗用車ラインナップのなかにあって、ミリタリーカーベースのGクラスを除けば、最も長寿であったということだけは誰にも否定できない。1971年から89年まで造られ、しかもベストセラーであり続けた。19年にもわたったモデルライフで、結局のところ、このSLは23万7287台、ロングホイールベース版クーペのSLCも勘定に加えたなら、30万175台が世に送り出されたのだった。

デビューした瞬間から人気者だった。2シーターのスポーティなオープンカーにおける革命的なモデルだと評価され、日常的に使える実用性も持ち合わせていたからだ。それに登場から50年経った今でも比較的モダンに見えるということは、当時では極めつけに新しいデザインだったはずだ。



R107と同じ時代に多くの人々が好んでドライブした車たちを思い出してもみてほしい。1971年の英国におけるベストセラーといえば、オースティンとモーリスのミニ1100か1300だったし、ドイツ人はまだVWビートルに好んで乗っていた。プジョーが204でフランス市場を支配していたかと思えば、我がイタリアに至っては、未だ2気筒のフィアット500がマーケットを引っ張っていたのだ。

スポーツカーの世界でも、メルセデス・ベンツ280SL、通称パゴダはR107にとって代わられたが、ポルシェは911ナローの2.4リッターが主力で、フェラーリならディーノ246GTがまだ現役という時代だった。メルセデスはデタッチャブル・ハードトップのコンバーチブルだった一方で、後者の二台はクーペかタルガトップから選ぶことができた。同じ年にジャガーはV12を積んだEタイプのシリーズ3を発表したのだが、売れ行きは芳しくなかった。

そして北米市場では、車に関して既に独特なマーケットを形成していた。全長が5.7m、全幅2.1m、車重2トンオーバーでCD値が0.55という鈍重なセダンボディに排気量7.2リッターながら220hpしか出せない、V8エンジンを押し込んだクライスラー・ニューヨーカーが熾烈な販売競争を勝ち抜いていたのである。スポーツカーならFRPボディのC3コルベット・スティングレイが人気で、こちらには幅広いレンジのV8、OHVエンジンが設定されていた。

確かに個性豊かな時代だったし、車好きのカーライフにとってはある意味、刺激的な環境だったといえなくもないが、自動車産業そのものはまだまだ脆弱であったようにも思う。あの時代、多くのことが同時に起きて自動車産業を危機に陥れている。ガソリンの値段が急騰し、自動車メーカーは開発中のニューモデルの排気量ダウンサイズを余儀なくされ、パワーも落とさなければならなくなった。一方でアメリカ合衆国当局は環境規制を強め始めていたし、衝突安全性テストの義務づけは、特にコンバーチブルのようなスポーツカーの生存を大いに脅かすこととなった。

これほど逆境であったにもかかわらず、1971年4月19日、メルセデス・ベンツは世界中のメディアやジャーナリストをホッケンハイムリンクに招き、新型SL、R107の350SLをローンチしたのだった。それは大成功を収めたパゴダSLの後継モデルであり、なんと3.5リッターのV8エンジンを搭載して、最高速度212km/hを謳っていた。

R107誕生のころ


「狂っていたわけではない。私たちは正気だったんだよ」当時、開発陣の一員だったDr.フランク・クノーテはそう言いながら笑う。彼は40年間にわたりメルセデスの乗用車開発に携わった人物だ。SLパゴダ用2.5リッター直6エンジンの開発からSLに関わり、そのままR107の開発チームの一員として活躍した。ちなみに彼の愛車も赤いボディに黒いファブリックトップの1985年式300SLで、初期にはプレスカーだったという。

「やるべきことを愚直にやっただけだよ。新たな法律によって、W113パゴダをこれ以上アメリカ市場で売ることはできなくなってしまった。とはいえ、我々にとって最も大事なマーケットだから、それは一大事だった。V8エンジンの採用に関していうと、排気量を上げてもっとパワーを得ることが、新レギュレーションに対応すべく増えた車重をカバーするための唯一の方法だったんだ。そのうえ最大の難問は、開発の最後の最後に至るまで、当局が一体どんな規制をかけてくるのか我々には、まったく知らされていなかったことで、だからR107の開発に関しては何事にも念には念を入れたんだよ」

実際、彼らの仕事は典型的なドイツ人エンジニア魂の発露というべき念の入りようだった。最終のテスト結果はすべて開示された基準値をクリアし、“パンツァーワーゲン”(装甲車)というR107のニックネームを生み出すきっかけになった。新型SLは、強固なスチールモノコックボディやボックス構造のシル、専用設計されたトランスミッション強化トンネルのおかげで、構造的にみても当時のメルセデスサルーンと遜色ないくらい安全に仕上がっていたのだ。

実際のところAピラーはパゴダより50%も強靭だったし、燃料タンクはより安全なリアアクスルの上へと移動され、凄まじく頑丈なコクピットを守るべく前後には衝撃吸収ゾーンまで設けられていた。

メルセデスのエンジニアは、チューニングしてパワーを引き上げた6気筒エンジンを使うことも検討したらしい。けれども排出ガス規制が一段と厳しくなることは時間の問題だったため、直6エンジンからパワーを絞り出すよりも、いろんな意味で余裕のあるV8エンジンを選んだ方が得策、そう判断したのだった。

「エンジニアリングに関して幾つかの問題では、とても幸運だったと思う」そう、フランクは謙遜する。

「ストレート6よりV8エンジンの方がストレスなくスムーズに回って低回転域から高いトルクが出るから、環境対策にはかえって適しているということは分かっていたんだ。そしてそんなエンジンをすでに我々はリソースとして持っていた。1969年のW108に積んでいたんだ。これ以上、どんなエンジンを望めばいい?」

「さらにはキャタライザーの搭載場所という問題もあった。もしそのスペースを確保できなかったら、数年のうちに生産をやめざるを得なかったんだよ。ところがたまたまそのスペースがあった。エンジニアリング的にあらかじめ考えられていたものではなく、まったくの偶然ってやつさ。そして結果は見てのとおり。持って生まれた品質とルックスは多くの人たちに、特にアメリカ市場において支持されて、セールス的にも大成功を収めた。経営陣はほくほくだったさ。何せ予定されていたモデルライフよりも数年も長く作り続けることにしたんだからね。私はマーケティングの専門家ではないけれど、映画やテレビ番組にちょくちょく登場したことも人気を保つ秘訣だったのかも知れないな」『探偵ハート&ハート』や『ダラス』を覚えていらっしゃるだろうか。

“ボビー・ユーイングSL”と呼ばれたことだって決して無駄ではなかったのだ。

編集翻訳:西川淳 Transcreation:Jun NISHIKAWA

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