シューマッハを4度の勝利に導いた「無敗マシン」、落札価格は10億円に迫る勢いか?

Images: Kevin Van Campenhout ©2022 Courtesy of RM Sotheby’s

フェラーリF300は、スクーデリア・フェラーリが1998年のシーズンに投入したF1マシンである。1982年、1983年にコンストラクターズを連覇して以降、チーム優勝から遠ざかっていた1990年代。アラン・プロスト、ジャン・アレジ、ゲルハルト・ベルガー等のドライバーを起用したのち、ミハエル・シューマッハがベネトンからフェラーリに移籍したのは1996年のことであった。

シューマッハがフェラーリへ移籍してしばらくの間は、ウィリアムズやマクラーレンなどのライバルと互角に戦うためにはマシン自体にまだいくつかの課題が残っていた。これらの課題に対処するため、1997年に、フェラーリはデザイナーのジョン・バーナードの後任にロリー・バーンを据えた。バーンは当初、バーナードによる1996年F310をもとにした1997年シーズン用のF310Bの開発に取り組んでいたが、レギュレーションの変更により、1998年にはまったく新しいマシンの開発が義務付けられることになった。

1998年1月7日、フェラーリは800人以上のジャーナリストをマラネロに招待し、F300と呼ばれる新しいマシンをお披露目した。ドライバーのミハエル・シューマッハとエディ・アーバイン、そしてフェラーリのルカ・ディ・モンテゼーモロ社長、スクーデリアのジャン・トッド監督により、3.0リッターのTipo047エンジンを搭載したF300が発表された。

F300の設計において、ロリー・バーンは、F1カーデザインの一般的なエアロダイナミクス・ソリューションに大きな影響を与える重要なレギュレーション変更に対処する必要があった。大きな変更点としては、マシンの横幅を7インチ近く短くしたことや、以前のF310Bとは異なる計上のエアインテークなどが挙げられる。フロントのショックアブソーバーは垂直に取り付けられていることも特徴のひとつだ。

シャシー#187は、シューマッハの「無敗マシン」


今回紹介するR300のシャシーナンバー187は、1998年初頭にマラネロで完成したと考えられている。その年のF1世界選手権シーズンに向けて製造された9台のF300のうちの7番目だが、何番目のマシンなのかが重要なわけではない。むしろ重要なのは、もっとも勝利に貢献したF300であり、シューマッハがこの#187で4勝を挙げているという事実だ。



1998年シーズンの最初の2戦ではマクラーレンが勝利。フェラーリはマシンの綿密な調整と新しいグッドイヤータイヤで巻き返しを図り、3戦目のアルゼンチンGPに臨んだ。このシャシー#187が初めて公式グランプリに参加したのは、1998年5月23〜24日のモナコGPで、このときにはTカー(スペアカー)として持ち込まれたが、実際には使用されなかった。その後、モントリオールのジル・ヴィルヌーヴ・サーキットで行われたカナダGPでは、シャシー#187がシューマッハに初めて割り当てられ、シューマッハは予選を3位で予選を通過した。デビッド・クルサードとミカ・ハッキネンがドライブするマクラーレン-メルセデス2台の後ろからレースをスタート。このグランプリは、波乱の展開であった。2度のリスタートと3回のセーフティーカー投入で、22台のマシンのうち12台が早々にリタイア。最終的にシューマッハが、ベネトンのジャンカルロ・フィジケラに16秒の大差をつけて勝利し、ファステストラップも勝ち取った。このサバイバルレースが、シューマッハとシャシー#187の勝利のはじまりである。



このコンビは続くフランスとイギリスでも勝利した。 6月28日にシルキュイ・ド・ヌヴェール・マニ=クールで開催されたフランスGPでは、シャシー#187は2番手グリッドからスタート。シューマッハとチームメイトのエディ・アーバインは、3位でフィニッシュしたハッキネンからの強いプレッシャーにもかかわらず、このグランプリで1-2フィニッシュを遂げた。しかもシャシー#187は2位のアーバインと19秒の差をつけていたというから驚きだ。

7月12日のイギリスGPでも、シューマッハは再び2番手でスタート。悪天候の中、セーフティーカー明けのペースアップにうまく反応したシューマッハは、1位のハッキネンを猛追。ハッキネンはシューマッハとのギャップを維持しようとして、明らかにマシンの限界を超えてしまう。ハッキネンはまだ濡れたトラックでスピンアウトし、このF300とシューマッハに勝利を譲る結果となった。これらの3戦連続の勝利により、スクーデリア・フェラーリは順位を上げ、ドライバーズとコンストラクターズの両方のタイトルでマクラーレン・メルセデスとの真剣勝負が繰り広げられることになる。

1998年イタリアGPと残りのシーズン


その後、シャシー#187が束の間の休息タイムを取っている間に、シューマッハは1998年8月16日のハンガリーGPでF300(シャシー#188)でふたたび勝利を収めた。その前の2戦(オーストリア、ドイツ)でもそれぞれ3位と5位でフィニッシュしている。

9月13日のイタリアGPの時点で、その年のドライバーズチャンピオンシップでハッキネンからわずか7ポイント差だったシューマッハ。イタリアGPではポールで予選を通過したものの、スタート時にシャシー#187をストールさせて、せっかくのポールスタートを台無しにしてしまった。しかし、中団勢以降のポジションから猛追したシューマッハは、アーバインとジャックヴィルヌーヴをかわし、ハッキネンに迫る2位までポジションをアップ。 2カ月前のイギリスGPでの戦いと同じく、シューマッハは“フライング・フィン(空飛ぶフィンランド人)”の後ろからプッシュし、ハッキネンにプレッシャーを与え続けた。 35周目にハッキネンはタイヤ交換のためにピットイン、シューマッハはその間にリードを奪った。その後まもなく、アーバインもハッキネンを抜いて2位に浮上した。

シューマッハはティフォシの軍団であふれるモンツァ・サーキットのグランドスタンドの前でフィニッシュラインを通過。イタリアGPでのこの勝利で、シューマッハはF1で33勝目を達成し、ドライバーズチャンピオンシップのポイントはハッキネンと同じ80ポイントに並んだ。

フェラーリが優勢かと考えられていたものの、1998年11月1日に鈴鹿で行われたシーズン最終戦ではシューマッハはシャシー#189でリタイアし、この年、フェラーリはドライバーズとコンストラクターズの両方でマクラーレンに及ばず、ともに2位という結果になった。

とはいえ、年間6回の勝利(アルゼンチン、カナダ、フランス、イギリス、ハンガリー、イタリア)とそれにより獲得した133ポイントという記録は、スクーデリアの長い歴史の中でも際立つものだった。今回出品されているシャシー#187は、1998年シーズン後半戦のルクセンブルグと鈴鹿にも持ち込まれたが、この2戦では使用されなかったという。

シャシー#187のその後


スクーデリア・フェラーリは、1999年9月までこのシャシー#187を保有していた。現在と同様のレース使用時のままの状態で、スペアの小さなパッケージとともに直接個人コレクターに販売されたという。その後、23年間にわたりシャシー#187はしっかりと管理され、完璧な保存状態を保っている。この間、一般の人々に公開されることはなく、レストアや変更も加えられていない。今回、RMサザビーズが8月にアメリカ・モントレーで開催するオークションに出品されるにあたり初めて一般に販売・および公開されたのだ。



参考までに、この1998年フェラーリ F300(シャシー#187)の予想落札価格は6,000,000~8,000,000USドル(約8億1800万~10億9000万円)となっている。レース史上最高の伝説のドライバーのひとりであるミハエル・シューマッハと密接に結びついているこのマシンは、間違いなく現存する最も重要なフェラーリF1カーのひとつだといえるだろう。

オクタン日本版編集部

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