57年ぶりにイギリスに里帰りを果たした、旧ブルース・マクラーレン号

Bonhams

1963年、F1チーム「クーパー」に在籍中、F1グランプリだけでは物足りなかったのか、独立への布石だったのか、ブルース・マクラーレンは現在のF1チーム「マクラーレン」の原点である「マクラーレン・レーシング」を立ち上げた。

そんなマクラーレン・レーシングにとって記念すべき第一号車は、独自開発のマシンというよりも、“お下がり”を改造したものだった。ただ、単なるお下がりではなく、ブルース・マクラーレン以外ではロジャー・ペンスキー、そして以前はブリッグス・カニンガムのチームドライバーであったウォルト・ハンスゲンが乗ったヒストリーを持つ。

1961年に1.5lコベントリー・クライマックスエンジンを搭載したF1クーパーとして誕生したこの車は同年、ワトキンスグレンで開催されたアメリカ・グランプリにウォルト・ハンスゲンが参戦。不運のクラッシュに見舞われ、車両は当時グングン知名度を高めていたロジャー・ペンスキーの手に渡った。ロジャー・ペンスキーはこのF1マシンを修復しただけでなく、スポーツカーのように仕上げた。ホイールアーチを持つ滑らかな流線形ボディながらセンター・ドライビング・ポジションは維持したまま、だった。

アンチフリーズクーラントのスポンサーを得ていたため「ゼレックス・スペシャル」と呼ばれたこのマシンは、ロジャー・ペンスキーによってアメリカの名だたる(高額賞金を得られる)スポーツカー・イベントで勝利を収めた。1962年、パシフィックのリバーサイドレースウェイで開催されたロサンゼルス・タイムズ・グランプリ、ラグナセカでのグランプリ、カグアスでのプエルトリカン・グランプリなど枚挙に暇がない。

レギュレーションの変更があるたびにマシンには改良が加えられ、やがてドライビング・ポジションはオフセット化された。そして、ゼレックス・スペシャルはテキサス出身のジョン・メコム・ジュニアに売却され1963年、アメリカではマルボロとカンバーランド、イギリスではブランズ・ハッチでのガーズ・トロフィーで優勝を収めた。

当該F1クーパーは華麗なる戦績を収めてきただけでなく、1962年から1964年の3シーズンにわたりF1シングルシーターから3種類のスポーツカーへと、レースレギュレーションに合わせて絶えず改造され「偉大なる変身者」と呼ばれるに至った。

ブルース・マクラーレンが所有したことにより伝説になる


しかし、この車両が伝説的な地位を固めたのはブルース・マクラーレンが所有した時であった。当時、クーパー・カー・カンパニー・ワークスのF1チームリーダーだったブルース・マクラーレンは、ペンスキー・クーパー・ゼレックスを長い間賞賛し、1964年に購入した。クーパーのグランプリレースの合間に、ブルースは新しいパーソナルチームの「マクラーレン・モーター・レーシングチーム」の下でスポーツカー・イベントに参加した。

ブルース・マクラーレンは、ペンスキーと同様の2.7l4気筒クライマックス・エンジンを使用して、エイントリーとシルバーストーンで開催されたイギリス国際スポーツカーレースで勝利を収めた後、3.5lの改造オールズモービルV8エンジンに載せ替えた。エンジンの変更に伴いシャシーにも手を加え、レース参戦間近に唯一調達することができた塗料「ガーデンゲート・グリーン」でボディを塗装。当時、珍しいボディカラーでやがて“ジョリー・グリーン・ジャイアント”と呼ばれるようになった。

F1クーパーはクーパー・ゼレックス・オールズモビルと姿を変え、トロントのモスポートパークで開催されたインターナショナル・プレーヤーズ「200」レースにおいて3.9lエンジンに載せ替えて勝利。ロジャー・ペンスキーに続き、連続で優勝を飾っている。

ブルース・マクラーレンによるジョリー・グリーン・ジャイアントの最後のレースは、この車両が今年9月にオークションで競られる場所と同じ、グッドウッドだった。1964年、RACツーリスト・トロフィー・レースでポールポジションからスタートし、ライバルのロータスとフェラーリに乗る世界チャンピオンのドライバーであるジム・クラークとグラハム・ヒルをリード。ファステストラップも記録するもレース中盤、クラッチの故障でブルース・マクラーレンはリタイヤしてしまった。

1964年、マクラーレンはオリジナルのスポーツカーを製作し、クーパー・ゼレックス・オールズモビルを売却。現在の南米オーナーの父親の手に渡る前に3人の手を渡ったことまでは分かっているが、1960年代後半に消息不明になっていた。経緯は不明だが、解体された状態で実に半世紀以上も倉庫に眠っていたのだ。





58年ぶりに英国へ戻ってきた「ジョリー・グリーン・ジャイアント」


そんなジョリー・グリーン・ジャイアントがアメリカ、ヨーロッパを経由して、6週間の航海を経て実に58年ぶりにグッドウッドの地に舞い戻ってきた。出迎えたのは、1964年のブルース・マクラーレン・チーム最後の生存者であるハウデン・ガンレー、グランプリ、ル・マン、CanAmのレーシングドライバーでボナムズのコンペティション・カー・コンサルタントでクーパーカーズの著者であるダグ・ナイ、そして「Oldracingcars.com」の編集者、アレン・ブラウンだった。



「ブルース・マクラーレン3番目の現場従業員であったことを常に光栄に思っています。信じられないことに、チームメイトのタイラー・アレクサンダーとウォル・ウィルモットがクーパー・ゼレックス・オールズモビルの整備を手伝ってから58年が経ちます。イギリスに戻ったこのシャーシフレームを調べたところ、私にとっては確かに本物の車です」と述べたのはハウデン・ガンレーだった。

「ジョリー・グリーン・ジャイアントが収まる木枠を開けて実際にマシンを目の当たりにするのは、レース史の1ページをめくるようです。1964年、グッドウッドで私が見た、ブルース・マクラーレンがステアリングを握った車両が目の前にあるのはただただ感激です」と興奮気味に語ったのはダグ・ナイ。

「この車の存在は知っていましたし、実車を見るのは素晴らしい経験です。レストアされる前に、このようなコンディションに保たれていることに驚きました。南米の季候は金属に優しいんでしょうね。イギリスだったら、腐食だらけですよ」と口にしたのはアレン・ブラウン。

ボナムズのモータースポーツ部門のグローバル・ディレクター、マーク・オズボーンはジョリー・グリーン・ジャイアントが見つかったことは、インディ・ジョーンズが聖櫃を発見するのと同じことであり、モータースポーツにおいて非常に重要な意味を持つ、と述べた。

「ロジャー・ペンスキーとブルース・マクラーレンという、このスポーツ界で最も著名で尊敬を集める2人の巨匠がドライブしたヒストリーは、あまりに偉大です。そして、マイケル・ターナーがデザインした有名なキウイのエンブレムを付けた最初のマクラーレン・スポーツカーでもある、という点も価値があります」と付け加えた。

去る6月に開催された「グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード」にて一般展示されたが、ジョリー・グリーン・ジャイアントのオークション出品はグッドウッド・リバイバルと併催されるオークション「ザ・グッドウッド・リバイバル・セール」(9月17日)となっている。


文:古賀貴司(自動車王国) Words: Takashi KOGA (carkingdom)

文:古賀貴司(自動車王国) Words: Takashi KOGA (carkingdom)

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