純正のテスタロッサでは物足りない!? ゲンバラが魔法をかけた、過激すぎる「テスタロッサGTR」とは

Stian Furuseth

フェラーリ・テスタロッサを見て、「過激さが足りない」と思う人はほぼいない。だが、そう思ったひとりの男によって誕生したのが「テスタロッサGTR」である。



1980年代のアメリカにおいて、金満アピールや個性の主張は正義だった。当時の洋服を見ると、見ているほうが恥ずかしくなるほど。高級車にエアロパーツの装着、ワイドフェンダー化、大型リアウィング装着など、目立ってナンボな時代であった。それでも、さすがに“純正”のフェラーリ・テスタロッサを物足りなく感じる人はほとんど居なかっただろう。

だがアメリカの起業家、ブルース・セリグ氏は物足りなさを覚えた少数の一人だった。そこで当時のカタログモデルの最高峰であった、フェラーリ・テスタロッサをウーヴェ・ゲンバラの元に送り、ワンオフの製作を依頼することにしたのだ。

ゲンバラは1979年、ドイツ・シュトゥットガルト近郊のレオンベルクで創業。場所柄、いつしかポルシェのチューナーとして名を馳せるようになった。1981年には「ゲンバラ」を商標登録し、内装のカスタマイズに加えて911、924、928用にエアロパーツの販売を開始。また、最新テクノロジーを搭載することを得意としていた。ゲンバラいわくLEDを搭載した初めて車に採用したのは、彼らだそうだ。

そんなゲンバラにとって、テスタロッサは初めて手掛けるフェラーリで気合十分。1988年初めに「テスタロッサGTR」の製作が始まり、完成までに要した時間は6週間だった。セリグ氏から出された唯一の要望は“フェラーリ・ディーラーで整備できるようにパワートレインはノーマルのまま”だった。それにしても、なぜテスタロッサをカスタマイズしようと思い立ったのか。



当時、ワイルドなイタリアン・スーパーカーといえば、ランボルギーニ・カウンタックという強烈な存在があった。一方、1984年にデビューしたテスタロッサはスーパーカー然としたスタイルながら上質な高級GTカーのような佇まいであった。そんなテスタロッサをゲンバラはテールエンドだけでなく、ドアにもエアロパーツを装着。そもそも1972mmとワイドな全幅を120mmも拡大させた。そして、テスタロッサにとっては特徴的な装備であった、フィン形状のエアインテークからフィンを取り払ったことが、当時は話題を呼んだ。フロントバンパーやサイドシルの下部は純正だと黒塗装が施されているがゲンバラはすべてボディ同色となっており、それだけでもモダンな雰囲気を与えていた。そのほかルーフマウントされたスポイラー、エアロドアミラーなどが装着され、よりアグレッシブなルックスを得ながら空力特性の向上を実現させた。



最近でこそ、ゲンバラのエグゾーストは“4本出し”が多いようだが、この頃は“6本出し”がトレードマークで、テスタロッサGTRも6本出しを装着していた。細かなところではエンジンのエアインテークが大型化されていたり、エンジンカバーに新たにブレーキランプを埋め込んだりといった差別化が図られている。足元には2ピースの17インチ・センターロック式BBSホイールを履いており、ホイールスポーク内側にボディ同色ペイントが施されている。

ゲンバラのマフラーはそれまでのゲンバラ車同様、片側3本出し。

この手のワイルドなカスタマイズは、過激なルックスを得る代わりに自動車メーカーには劣る仕上がりになってしまいがちだった。その点、ゲンバラはキッチリと“仕事”をすることで知られており、特に内装の仕上げには定評があった。テスタロッサGTRの純正表皮は、ほぼすべてが黄色のパイピング入りのウォーター・バッファロー・レザーに張り替えられている。シートはレカロの電動調整式シート「タイプC」を装備したほか、パイオニアの最高級オーディオが奢られた。そしてドアポケットには当時、重要だったカセットテープ・ホルダーが用意されている!ダッシュボードに配された7インチのモニターはテレビ番組やビデオを見るためのものではなく、最近でこそ珍しくない“リアビューモニター”である。ちなみに、ゲンバラは1986年に別な車両製作でリアビューモニターを世界で初めて導入した人物でもある。また、ステアリングホイールでオーディオをコントロールできるようにしたのも、ゲンバラである。

ゲンバラのステアリングホイールには、最近でこそ珍しくないがオーディオのコントロールボタンが配されている。ダッシュボードパネルはリアビューモニターを装備するためにワンオフ製作されている。

アメリカにおけるテスタロッサの新車時価格が9万4000ドルだった当時、セリグ氏がゲンバラに支払ったカスタマイズ代金はなんと29万453ドルだったという。テスタロッサGTRはジュネーヴモーターショーでお披露目された翌月、マイアミに住むセリグ氏の元へ送られた。

セリグ氏は食品加工業で財を成したほか、複数の自動車関連企業も経営していた。テスタロッサGTRはそれら法人のプロモーションに用いられ、登録すらされていなかった。また、写真撮影やイベントなどにも貸し出された。セリグ氏は1999年までテスタロッサGTRを保有し、フロリダ州で不動産業を営むピーター・ウォロフスキー氏に譲った。2005年にはロールス・ロイス・コレクターでディーラーを営むドナルドGメイヤー氏が購入したものの、地元ニュージャージーの自動車ショーに展示するのが主な使われ方だった。この時点でのテスタロッサGTRの走行距離は8400km程度に過ぎなかった。やがてテスタロッサGTRはアーチ―・マクラレン氏とニコラス・スティーブン・パティン氏の共有名義となり、カリフォルニア州へと移った。日常的に運転されることはなく、ごく稀にサンタバーバラやモントレーに車好きが集まるイベントに参加する程度だった。この間、地元の正規フェラーリ・ディーラーであるニューポートビーチ・フェラーリで整備されたほか、G&Kオートでカリフォルニア州の排ガス規制に対応するマフラーへと交換された。


【後編】に続く

編集翻訳:古賀貴司 (自動車王国) Transcreation: Takashi KOGA (carkingdom)
Words: Matthew Hayward Photography: Stian Furuseth

編集翻訳:古賀貴司 (自動車王国) Transcreation: Takashi KOGA (carkingdom)

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